デンマンが日々思ったこと考えたこと感じた事を書きます。


by denman705
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

愛の夕顔を探して (PART 1)


 


愛の夕顔を探して (PART 1)


 



(rengeasa2.jpg)




(sayuri55.gif)


デンマンさん。。。 もしかしてデンマンさんが“愛の夕顔を探して”いるのですかァ~。。。?



(kato3.gif)


まさかァ~。。。 どうして そう思うのですかァ?


だってぇ~、上の写真には 夕顔をバックに若い頃の“めれんげさん”が写っているではありませんかァ~。。。


つまり、僕にとって“めれんげさん”が夕顔だと、小百合さんは言うのですかァ~。。。


違うのですかァ?


言われてみれば、そうかもしれませんねぇ~。。。 (微笑) でもねぇ~、残念ながら 僕が“愛の夕顔を探して”いるわけではないのですよ。。。


じゃあ、どなたが探しているのですか?


名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんですよ。。。



(asamany2.jpg)



あらっ。。。 きれいで可愛い方ですわねぇ~。。。 デンマンさんは名古屋まで出かけて行ってナンパしたのですかァ~? うふふふふふふ。。。



悪い冗談を言わないでください。。。 (苦笑)


では、相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんはデンマンさんの親戚の方ですかァ?


違いますよゥ。。。 会ったことのない女性です。。。 ちょっと次のリストを見てください。。。


ライブドア『徒然ブログ』の日本時間で2017年5月2日の午後2時33分から午後5時までの約2時間半の「生ログ」の一部
(liv70503a5.png)



『拡大する』


『愛の夕顔』



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で2017年5月2日の午後2時33分から午後5時までの約2時間半の「生ログ」の一部ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しい。



あらっ。。。 5月2日の午後3時5分にYahoo!で検索して『愛の夕顔』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。


だから、それが名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さんですよ。。。


IPアドレスを調べて悠子さんを特定した、とデンマンさんは言いたいのでしょう?


その通りです。。。


IP アドレス: 14.133.116.220 名古屋市に住んでいる相田 悠子(あいだ ゆうこ)さん
(ip116220b.png)


『拡大する』



何度も言うようですけれど、IPアドレスを調べてもプライバシーを守るためにアクセスしたネット市民の名前までは確定できないのですわァ。



確かに、小百合さんの言うことは正しい!。。。 でもねぇ~、調べる方法はあるのですよ。。。


どのようにするのですかァ~?


ここで説明すると悪い奴がプライバシーを侵害するので公表することはできません。。。 だから、小百合さんもキツいツッコミを入れないで僕の話を素直に聞いてくれませんかァ~?


分かりましたわ。。。 デンマンさんが そのように言うのであれば サラッと聞き流しますわァ。。。 それで相田 悠子さんは『愛の夕顔』を読んで どこに感銘を受けたのですか?


まず、次の小文を読んで考えさせられたのですよ。。。



天の夕顔



(gyozui6.gif)


私が京都の大学生のころ、はじめてあき子に会いました。 彼女は、下宿先の家の娘で、すでに結婚した身で、子供ももおり、夫は外国にいました。


まもなく、彼女の母親が病気で亡くなりました。 私が通夜や葬儀、さらに四十九日の観音講(かんのんこう)の際、なにくれと手伝ったため、彼女からその礼などを認(したた)めた手紙が送られてきました。 知人の家に移っていた私は、どういうわけか、その通りいっぺんに見える手紙がうれしくてたまらず、思えばそれが、私の運命を左右するきっかけになったのです。


 (中略)


6月の末、私は試験の準備に忙しいころでした。 彼女は結婚生活に悩んでいる様子を話しました。 はじめは姉弟のような気持ちだったが、しだいに私に惹かれるようになり危険を感じ出した、これ以上交際を続けているのは自分の立場が苦しくなるので今日は別れを言うために来た、と言うのです。 私は恋愛の気持ちなどなく、友情だと思っていたのに、「別れに来た」と言う言葉には少なからず狼狽し、意外な気持ちながら、彼女の威厳ある堅い決意に従うほかありませんでした。


これが、彼女から突き放された最初です。 それまで会うこともなかったのに、こんな気持ちになったのが不思議でしたが、これ以来私は今に至る20数年、あの人のことを思い続ける運命に陥ったのです。


別れた後、彼女から受け取ったハガキには、別れたことへの葛藤、妻として母として生きようと決心しながらも力が及ばなかったことへの後悔などが綿々と綴られていました。 私はすぐに、自分のことをもっと知ってもらいたい旨の返事を書きましたが、それきり手紙も何も来なくなってしまいました。 私は彼女の決意の堅さを感じながらも、かえってあの人を追いかけていきたい気持ちが強くなっている自分に気がつきました。


8月下旬の夕暮れ、私はじっとしていられなくなり、神戸のあの人の家を訪ね、私の気持ちを伝えましたが、彼女の決意は変わらないようでした。 帰るとき、階段に降りようと二人が向かいあった瞬間、二人の身体に、同時になにか恐ろしいものが走ったのを感じたのです。 そのとき互いに理性を越えて飛びつきたかったに違いありません。 でも、私たちはそれをしませんでした。 そこに私たちの今日までの愛情の形式があったといえます。


 (中略)



(girl122.jpg)


私が23歳の夏の初めでした。 7つ年上のあの人の美しさはもはや私には絶対的なもので、それ以上のものはありませんでした。 深遠で情熱を含んだ静かな強さが私を苦しくするほどに執着させ、話すときは当たり前の口調でしたが、互いの目の中に互いの運命の暗示をいつも読んでいたように思われます。 私の心はどんなことがあっても彼女を失いたくないという切ない願いでいっぱいになりながらも、いつか彼女を見失うのではないかという不安がつきまとい、私は人が不倫のために自殺する気持ちをはじめて理解しました。


 (中略)


そのころ、私の下宿先の隣家に私とあまり年の違わない娘がいました。 私はその娘と親しくなりましたが、あの人との関係に比べればあわあわしいものでした。 あの人は私にとってだれとも比較などできないほど絶対的で永遠の存在だったのです。 しかし、その娘から結婚を迫られ、5年ぶりにその相談のために、あの人に会うことになりました。 私の27歳の夏でした。


私は耐えられないなつかしさで彼女と会いましたが、彼女は案に反して隣の娘との結婚を勧めたのです。 (中略) 


私は結局、隣の娘と結婚しましたが、不運なことに彼女は肋膜(そくまく)を患い、2年間介抱に明け暮れました。 とうとう、私は結婚に対して耐えられない苦痛を感じ、病身の妻と別れる決心をしたのです。 自分の魂の本然(ほんぜん)にかえりたい、それが自分に与えられた運命だと悟り一人で生きていく決心をしました。 私の31歳の春でした。 あき子とはじめて会ってからすでに10年の歳月が流れていました。


彼女は5年たったら、もう一度会うことを約束してくれました。 私にとってもはや5年の年月などなんでもありません。 雪の季節にも、しみ通るような寒さにも、私の心はあの人に会える喜びで明るく輝いていました。


あの人と約束した5年目が近づくころ、私はもう45歳になっていました。 あと1日であの人に会えるという日。 私はあの人が末期の思いで書いた悲しい手紙を受け取ったのです。 動かしがたい死の予告を綴った手紙に私は泣いても泣いても、泣ききれないほどの悲しみに突き落とされたました。 あんなに求め続けていた人とついに会えなかったこの哀れな男の運命を想像してください。 すぐあの人の家へ駆けつけましたが、そこでハッキリとあの人の死を確かめただけでした。


 (中略)


天国にいるあの人に消息するたった一つの方法は、夏の夜の花火を打ち上げることでした。 若いころ、あの人が摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向かって華やかな花火として打ち上げたいのです。 花火が消えたとき、私は天にいるあの人がそれを摘み取ったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとしているのです。



(fireworks.jpg)


(注: 写真とイラストはデンマン・ライブラリーから)




92 - 96ページ
『天の夕顔』 中河与一・著
「あらすじで読む日本の名著 No.2」
編著者: 小川義男
2003年11月13日 第2刷発行
発行所: (株)樂書館



相田 悠子さんは上の小文を読んで 作者の個人的な体験を書いたものなのかなァ~? そう思ったのですよ。。。



つまり、中河与一の私小説だと思ったのですねぇ~。。。


そういうことです。。。 でもねぇ~、次の説明を読んで、実はそうではないと解った。



『天の夕顔』主人公モデル問題



(tenyou2.jpg)


 


中河の代表作『天の夕顔』は不二樹浩三郎という按摩の身の上話に基づく作品だったため、不二樹は中河に対してこの作品を自分との共著とすることを要求した。
しかし中河は「話をしてくれただけで、それがあなたに何の関係があるのですか。法廷へ出ても何処へ出ても」とこの要求を退けると共に、主人公のモデルの実名公表を拒み続けたため、不二樹との間に深刻な確執が生じた。


不二樹から中河に脅迫状が届き、その直後に中河家の愛犬が不審な死を遂げたこともある。
一連の経緯について中河が警視庁成城警察署に相談したものの、刑事事件には発展しなかった。


一方、不二樹の側でも中河を訴えようとしたが弁護士費用の問題からこれを果たせず、その代わり『名作「天の夕顔」粉砕の快挙──小説味読精読の規範書』(1976年)と題する書物を自費出版してこの作品が中河の創造力の所産ではないことを世に訴え続けた。
不二樹は1990年に93歳で死去した。




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



主人公のモデルのことで問題を起こしたことを知って相田 悠子さんはガッカリしたのですか?



いや。。。 ガッカリしたと言うよりも、人間関係というのは恋愛や不倫だけにとどまらず。。。、また男女間だけではなく、同性の間でも 常に問題が起こる宿命にあるのだということをしみじみと感じたのですよ。。。


要するに、相田 悠子さんも人間関係で悩んでいたのですか?


そうです。。。 悠子さんだけじゃなく、人間関係で悩んでいない人って居ないでしょう!? 誰もが 程度の差こそあれ人間関係に悩んでいるものですよ。。。


確かに、そう言われてみれば、その通りですわァ。


小百合さんだって、これまでに人間関係でいろいろと悩んできたでしょう?


ええ。。。 確かに、言われてみれば。。。


。。。でしょう? あの有名な頭のいいアインシュタインでも人間関係で悩んだのですからねぇ~。。。



アインシュタインは1897年、スイスのチューリッヒにある連邦工科大学で学んでいたとき、最初の妻になる女性と出会い、恋に落ちた。 その女性はミレーヴァ・マリッチ。



(mileva01.jpg)


ミレーヴァ・マリッチとアインシュタイン


アインシュタインと同じ講座の学生で、生まれつき足が悪かった。
二人に共通していたのは、コーヒーとソーセージが好きということだった。
彼女と知り合ってまもないころ、アインシュタインが書いた手紙には、ミレーヴァを呼ぶ愛称がこれでもかとばかりに登場する。


僕のかわいこちゃん、僕の子猫ちゃん、僕の愛する魔女、僕の小さなすべて……そして愛の告白もあった。
1900年、アインシュタインが21歳のときの手紙にはこう書かれている。


「哀れな人間たちの群れのなかで生きてゆこうと思ったら、君のことを思わずにはいられない」


二人はともに勉強し、音楽を楽しむうちに、友達から恋人へと関係を進んだ。
同級生からミレーヴァの足のことを問われ、僕なら不具の女と結婚などできないと言われたアインシュタインは、
「でも彼女はすばらしい声をしている」と答えた。


最後には二人の関係は破局を迎えるのだが、そこにいたる事情は深く複雑なものだった。
自分の心はミレーヴァのものだと言っているときから、アインシュタインはいろいろな意味で遠い存在だった。
離ればなれで暮らした時期も長く、研究のことしか頭にないアインシュタインには、子供のいる雑然とした生活は耐えがたいものだった。


結婚前に生まれた娘ルイーズは養子に出され、その後もアインシュタインとミレーヴァの間には、二人の男の子が生まれている……のちにハンス・アルバートは水力学の専門家になり、次男エドゥワルドは精神分裂病で施設に入った。
そのかたわら、アインシュタインはいとこのエルザに求愛するようになり、二人はやがて結婚する。



(elsa01.jpg)


エルザとアインシュタイン


1913年、ミレーヴァとの離婚が成立する5年以上も前に、アインシュタインはこんな手紙をエルザに書いている。
「私にとって妻は、クビにできない雇い人のようなものです。私は寝室も別にして彼女を避けています……私と、私の人生を支配できるのは自分以外の誰でもありません」


エルザは夫の研究にいっさい口出ししなかったし、知性面で夫と張りあおうという気持ちもさらさらなかった。
そんな二番目の妻に対しても、アインシュタインは同じことを繰りかえしてしまう。
夫婦の間から愛もセックスも消えうせ、アインシュタインはほかの女性に盛んに言いよりはじめる。
友人によると、その様子は「磁石が鉄粉に引きよせられるようだった」という。
またしても寝室が別になり、妻は雇い人に等しい存在になりさがった。
ただし海外旅行や映画のプレミアのときは、夫と行動をともにすることが許された。


アインシュタインはエルザに、「きみの話、私の話をするならいい。だが『私たち』のことは一切話題にしないでくれ」と申しわたしている。


年を経るにつれて、アインシュタインは女性を苦々しく思うようになった。
彼にとって、愛は偽りの概念に過ぎないし、生涯の結びつきなどという理屈はもっと始末におえないものだった。


(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーから)




39 - 41ページ
『アインシュタインをトランクに乗せて』
著者: マイケル・パタニティ(Michael Paterniti)
訳者: 藤井留美
2002年6月20日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社ソニー・マガジンズ



あれほど頭のいい天才と言われたアインシュタインでも人間関係、夫婦関係に悩むのですよ。。。 だから、凡人である我々のような平凡なネット市民が、人間関係、恋愛関係で悩まないはずがないのですよ。。。



確かに、それは理屈ですわ。。。 で、相田 悠子さんも そう思って少し気持ちが楽になったのですか?


その通りです。。。 頭のいい天才と言われたアインシュタインでも人間関係、夫婦関係に悩むのだから、相田 悠子さんが悩むのも当然だと思えるようになった。


つまり、人間は頭のよしあしに関係なく、天才でも馬鹿でも、人間関係、夫婦関係、恋愛関係、不倫関係に悩むものだと。。。 この事が言いたくて、デンマンさんは この記事を書く気になったのですか?


もちろん、それだけではありません。。。


他に何が言いたいのですか?


あのねぇ~、相田 悠子さんも、それだけなら、別に『天の夕顔』を読んで感銘を受けなかった。


だから、どういうところに感銘を受けたのですか?


『天の夕顔』の話は按摩さんの身の上話に基づく作品なのだろうけれど、上のモデル問題などを考え合わせると、読んでゲッソリするような現実の醜い面が表れていますよ。 つまり、ずいぶんと脚色されているような気がします。


なぜデンマンさんは、そのように思うのですか?


本当にモデルも素晴らしく、また作品も素晴らしいものならば関係者はそっとしておくと思うのですよ。 堀辰雄の名作に『風立ちぬ』という作品があるのです。。。




(kaze002.jpg)


 


作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、作品冒頭に掲げられているポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」を堀が訳したものである。


なお、単行本ではフランス語の原文で掲げられたエピグラフは、初出誌では、「冬」の章の冒頭に、「風立ちぬ、いざ生きめやも。(ヴアレリイ)」と日本語で付されていた。


「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意である。


「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意であるが、「いざ」は、「さあ」という意の強い語感で「め」に係り、「生きようじゃないか」という意が同時に含まれている。


ヴァレリーの詩の直訳である「生きることを試みなければならない」という意志的なものと、その後に襲ってくる不安な状況を予覚したものが一体となっている。


また、過去から吹いてきた風が今ここに到達し起きたという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安がうまれた瞬間をとらえている。


作中の「私」の婚約者・節子のモデルは、堀と1934年(昭和9年)9月に婚約し、1935年(昭和10年)12月に死去した矢野綾子である。


なお、堀は「死のかげの谷」の章を、1937年(昭和12年)12月に軽井沢にある川端康成の山荘に籠って書き上げた。




出典: 「風立ちぬ (小説)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



あらっ。。。 堀辰雄は軽井沢にある川端康成の山荘に籠って書き上げたのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 小百合さんの別荘から程遠くないところですよ。。。


知りませんでしたわ。。。


とにかく、矢野綾子さんの遺族が堀さんを訴えたなんて聞いたことが無い。 モデル問題を読んでから『天の夕顔』を読むと、現実の美しい部分だけを拾い上げて書いたような気がします。 現実の醜い部分がモデル問題となって顔をのぞかせているのですよ。


現実をそのまま作品として書くということは難しいのでしょうか?


いや。。。そんなことは無いと思いますよ。 本当に現実のモデルが素晴らしく、また作品も素晴らしいものならば関係者はそっとしておくものですよ。 だから、堀辰雄の名作『風立ちぬ』という作品に出てくる関係者は誰も問題を起こしていないのです。。。


事実は小説より奇なり。


でもねぇ、昔の人は、このようにも言いましたからね。 現実をそのままに書いても、なかなか信じてもらえないものですよ。


あらっ。。。デンマンさんも、そのように感じるのですか?


たとえば「あの人」の旦那さんが手紙を書いてきたとしますよ。


どのような。。。?


次の手紙ですよ。 小百合さんは現実の手紙として信じることができますか?



毎年いつも年末に妻の美千代にお便りをお寄せくださり誠に有難うございます。
厚くお礼申し上げます。
実はつらく悲しいことでありますが美千代は去る7月18日に亡くなりました。




(lily2.jpg+yuka03.gif)


昨年の春先に胸が傷むと病院へ行きましたところ、肺のあたりに水がたまっているという奇病で、すぐに入院し水を抜く手術をしました。
手術は成功したのですが若いころ結核をわずらったことがあり原因を調べるため検査設備の整っている東北大学病院へ行くことになり、通院や入院を半年以上、各種いろいろの検査をうけました。
結核の関係はないと判定され、近くの病院から往診していただくことになりました。


しかし、そのことが美千代には不本意だったようで、断って別の病院に通うようになりました。
そのうち段々足腰や体も弱ってきて、たびたび転んだりして車椅子の生活になり、時々は救急車のお世話になるようになりました。
短期入院や点滴してもらって帰るようにもなりました。


それでも、そんなにひどいようには見えず食事は食堂へ出てくるし、家の中を立って伝い歩きもしました。
当日も夕食中、食べ物が喉につかえ呼吸困難となり、救急車を呼んで病院へつれて行き、いろいろ手を尽くしていただきましたがそのまま回復せずに亡くなりました。
診断は「心臓周囲病」ということで心臓も衰弱していたことと思われます。


私が先に逝くものとばかり思っていましたのに、思いもよらぬ逆縁で申し上げる言葉もありません。
元来、頑健丈夫とは言えず、むしろどちらかと言えば病弱なところもありました。


それでも気の強いところもあって新聞社に勤めたり、百貨店の仕事などもやって、退社後も、大学の研究室で秘書などの仕事もしました。
30代で自動車免許を取得したり、一時はスナック経営などもやり、貸家を建てたりもしました。
精一杯生き抜いたと言えましょう。
また、多くの人々から好かれ愛された生涯でありました。


デンマンさんにも永い間ご厚誼をいただき本当に有難うございました。

重ねて厚くお礼申し上げます。
どうぞお体を大切に、ますますお元気でご活躍なさいますようお祈り申し上げます。


2010年11月24日


梶尾一郎


福島県会津若松市東栄町
郵便番号: 965-8601




『生きることって愛すること?』より
(2010年12月18日)


『即興の詩バンザイ』にも掲載
(2010年12月4日)



この手紙は、ほとんどそのまま書き出したものです。



つまり、デンマンさんが受け取った手紙なのですかァ~?


そうですよ。。。


マジで。。。?


小百合さんは信じることができないのですか?


だってぇ~。。。


だってぇもヘチマもありません! 相田 悠子さんはこの手紙を読んで感銘を受けたのですよ。。。


デンマンさんは、どうして そのようなことまで判るのですかァ~?


悠子さんがメールで感銘を受けたことを僕に書いてよこしたのです。。。


マジで。。。?


あれっ。。。 小百合さんは、そのことも信じられないのですかァ~?


だってぇ~。。。


だってぇもヘチマもありません。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのですよ。。。 だから、小百合さんも信じれば救われますよゥ。。。


分かりましたァ。。。 今晩、じっくりと眠りながら考えて見ますわァ~。。。



(laugh16.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


[PR]
by denman705 | 2017-05-07 03:15 | 文学論・文学の素養・教養