デンマンが日々思ったこと考えたこと感じた事を書きます。


by denman705
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哀れな女の性(さが)と業(ごう) PART 2

この記事では、僕は持統天皇に焦点を当てて書きたいと思います。
なぜ、持統天皇は境界性人格障害を患うようになったのか?
なぜ、大津皇子を死に追いやったのか?
なぜ、額田女王の事をたった1行しか『日本書紀』に書かせなかったのか?

こうした質問に答えるには持統天皇の生い立ちを見てゆくと答えが見つかります。



これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
日本史上、この事件は“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)。
つまり、入鹿の首をたたき切ったのが後の天智天皇だったのです。
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
藤原不比等の父親です。

そして、この入鹿の首をたたき切った天智天皇が持統女帝の父親なのです。
しかも、持統天皇が生まれたのがこの事件の起きた年の暮れなんですよ。
なんとなく、彼女の一生を暗示しているような事件ですよね。

俗に女の子は父親に似ると言いますよね。
この持統女帝こそ、天智天皇の子供の中で、最も血筋を引いていると言う歴史家が多いのもうなづけます。

鸕野讚良(うののさらら)皇女と呼ばれたこの女性は、男勝りの気丈な性格で、権勢欲・独占欲が強く、為政者としての冷徹な非情さと冷酷さを持っていました。
自分の血が流れている者だけに皇位を継がせようと固執したのです。
例えば、大津皇子を死に追いやった事はその良い例です。
大津皇子は持統天皇の甥に当たります。
つまり、実の姉(大田皇女)と天武天皇の子供です。
しかし、例え実の姉の子供と言えども、
自分の血が入っていない者に皇位を継がせたくはなかったのです。



注: 
この系図は従来どおり、中大兄皇子と大海人皇子が同腹の兄弟であるという事で書いてあります。
これ以降の話もそのつもりで進めます。


乙巳の変から12年後の657年、讚良皇女と姉の大田皇女は父親の中大兄皇子の政略的な都合で弟の大海人皇子の妃として一緒に嫁がされたのです。
この時、大田皇女は満13才。讚良皇女は満12才です。

中大兄皇子が政治的に最も恐れていたのが弟の大海人皇子だったのです。
そのため弟の歓心を買うためと懐柔策からこうして自分の娘二人を同時に弟の妻として与えたのです。
そうする事によって、弟を自分の協力者にしようとしたわけです。
要するに、これは政略結婚だったわけです。

大海人皇子の妻になった讚良皇女の生活は以前とほとんど変わる事がありませんでした。
天皇の妃であれば後宮に入ることになりますが、皇子の場合は妃と言っても実家で暮らします。
讚良皇女の母親の遠智娘(おちのいらつめ)も父親の石川麻呂の別宅で暮らしていたように、
讚良皇女も以前と同じように叔母の姪娘(めいのいらつめ)の世話を受けて弟の建皇子(たけるのみこ)の世話をしながら祖母である斉明天皇の宮で暮らしていたのです。

この時、すでに讚良皇女の母親は亡くなって居なかったのです。
この悲劇についても書く必要があるでしょう。
幼少の時のこの悲劇が讚良皇女の心に与えた衝撃はトラウマとなって後の人格形成に大きな影響を与えたと僕は信じています。
現在で言うなら境界性人格障害に陥っていたと思います。

乙巳の変から4年後の649年3月、当時右大臣であった石川麻呂が謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。
石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂は政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

しかし、事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのです。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのです。
何と、哀れな事かああ~~
泣けてきますよね。
でしょう?
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したと言います。
取ってつけたような弁解ですよね。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、他の誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。
これも哀れな事ですよね。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に叔父大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは我が子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、讃良皇女が最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。




春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山


この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだんではないんですよね。
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、
愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、
僕は次のようにしか解釈できません。


春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。


上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。



この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
とにかく、証拠がないんですよ!

しかし、状況証拠を寄せ集めれば、このような解釈しか僕にはできないんです。
関心のある人は、なぜ僕がこのように解釈したのか?を理解するために、ぜひ次の2つの記事を読んでくださいね。

■ 『【いにしえの愛を求めて。。。】 万葉集の中の持統天皇のあの有名な天香具山の歌は、大津皇子の怨霊を鎮魂するために詠われたのでしょうか?』

■ 『【いにしえの愛を見つめて。。。】 不破内親王(安倍内親王とは異母姉妹)は悪霊扱いされています。。。果たして悪霊にあたいするのでしょうか?』

その後、あれほど期待をかけていた草壁皇子も亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進めました。
上の歌は、この藤原京の宮殿で詠んだものです。

持統天皇は在位中、頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子の亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の息子、軽(珂瑠)皇子でした。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。
あくまでも自分の血にこだわった人だったのです。
そのためなら、父親のように冷徹な非情さと冷酷さを持つことのできる人でした。

しかし、心の平穏をつかむ事ができたのでしょうか?
僕は上の有名な歌を読んでみて、
持統天皇は結局、失われた愛の思い出を偲びながら
自分の業の深さに思いを馳(は)せていたのではないか?。。。そうとしか思えないのです。 

あなたはどう思いますか?

では。。。



ィ~ハァ~♪~!

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では、今日も一日楽しく愉快に

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by denman705 | 2006-07-03 14:45 | 日本史