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カテゴリ:日本史
  • 日本人の祖先(PART 1)
    [ 2012-04-10 10:02 ]
  • 日本人の祖先(PART 2)
    [ 2012-04-10 10:00 ]
  • 日本人のルーツ(PART 1)
    [ 2012-04-09 08:36 ]
  • 日本人のルーツ(PART 2)
    [ 2012-04-09 08:36 ]
  • 末裔の足跡(PART 1)
    [ 2012-03-28 08:49 ]
  • 末裔の足跡(PART 2)
    [ 2012-03-28 08:49 ]
  • 大伴柴田臣の末裔(PART 1)
    [ 2012-03-26 08:46 ]
  • 大伴柴田臣の末裔(PART 2)
    [ 2012-03-26 08:45 ]
  • 真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 1 OF 4)
    [ 2012-03-25 08:52 ]
  • 真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 2 OF 4)
    [ 2012-03-25 08:51 ]
日本人の祖先(PART 1)
 
日本人の祖先(PART 1)





デンマンさん。。。昨日、次の記事を書いたばかりではござ~♪~ませんか!?



『日本人のルーツ』

(2012年4月9日)




あれっ。。。卑弥子さんは読んだのですか?



もちろん読みましたわよ。 あたくしは、これでも『新しい古代日本史』のマスコット・ギャルをやっているのですから。。。 古代史に関連する記事は努(つと)めて読むようにしているのですわ。

卑弥子さんがそれ程熱心だとは思いませんでしたよ。

つまり、今日は昨日の続きでござ~♪~ますか?

そうです。 実は、昨日の記事は9年前に書いたものなのですよ。

『今、日本に住んでいる人は日本人でないの?』

(2003年7月17日)


マジで。。。? でも、どうして同じ記事を投稿したのですか?

柴田さんから、またコメントをもらったのですよ。 僕も久しぶりに上の記事を読んでみて、もう一度投稿するだけの内容になっていると思ったのです。 それに、僕の記事にはコメントがめったにつかないのです。 だから、真面目なコメントをもらうと嬉しくなって、すぐにその事で記事を書きたくなるのですよ。 そう言う訳で、昨日は予告編のつもりで9年前の記事を投稿したわけです。

それで、嬉しくなってぇ~、あのォ~。。。あたくしをお呼びになったのでござ~♪~ますかア?

そうですよ。 いけませんか?。。。それに、『新しい日本古代史』サイトのマスコット・ギャルである卑弥子さんとも、この喜びを分かち合いたいと思ってね。。。とにかく、柴田さんのコメントを書き出しますから卑弥子さんも読んでみてください。


Beaverland Net Form Processor
From: yasu60@******.plala.or.jp
To: barclay1720@aol.com
Date: Thu, Apr 5, 2012 4:14 am
(Pacific Daytime Saving Time)
日本時間: 4月5日午後8時14分
MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Apr 05 2012 / 04:14:29

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-rikutou2-superb
Your_Name = 柴田康弘
Your_Email_Address =
yasu60@******.plala.or.jp

Comments:


とても面白いです。

最近、平らの清盛を観ていまして、気がつきました。
東北の河童伝説です。
カッパドキアに因む物と睨んでいます。
河原者、エタ、つまりユダヤです。

後、天の邪鬼とは何者なのか?

日本古族、大伴、忌部、物部、と賀茂族の関係は如何でしょうか。
八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎と言いますが。

謎はつきません。日本最高。

宜しくお願いします。


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




つまり、柴田さんも「日本人のルーツ」にかなり拘(こだわ)っているのですわね。



日本史に興味がある者にとって日本人のルーツを探ることは歴史的冒険というか? 歴史ロマンですからね。。。

それで、「東北の河童伝説」や「天の邪鬼」も日本人のルーツと関係あるのでござ~♪~ますか?

関係あると思いますよ。 僕はたまたま中井久夫さんが書いた『私の日本語雑記』という本を読んでいたのですよ。


(lib20409.gif)



あらっ。。。デンマンさんは『失楽園』のDVDも借りているのですわね。


(paradise.jpg)



去年の10月に日本に帰省していた時に知り合いが話題にしていたので、見てみようと思ったのですよ。

まだ観てないのでござ~♪~ますか?

そのうち観て、また記事を書きますよ。 とにかく、偶然というのは、何と言うか。。。不思議と言うか。。。恐ろしいというか。。。なんとも奇妙なものですね。 日本人のルーツを探る記事にコメントをもらった時に僕は『私の日本語雑記』を読んでいたのですから。。。ついでに図書館のページにコメントまで書き込んでしまいましたよ。


(lib20409b.gif)

『バンクーバー図書館のこのカタログのページ』


Japanese Paperback
(Book - 2010)
Barcode: 31383092625246

単行本として処理されているけれど、決してpaperbackの類ではない!
日本語の担当者が怠けたと言いたくないけれど、他の本と同じような説明がないのは可笑しい!
ブログで取り上げようとしても paperback ではソフトカメラで撮るだけのメリットがない。

ところで、この『私の日本語雑記』は精神医学者の中井久夫さんが書いた本です。
詩を書いたり訳書が多数あるので、もともと文学に興味があった人なのでしょう。
文章を書きたい人には、とてもためになる本だと思います。

僕もこの本から引用して記事を書きました。
興味があったら、次のURLをブラウザに入れて読んでみてください。
(リンクを貼りました。)


『膠着語ってなんや?』

(2012年3月20日)

『日本人の祖先』

(2012年4月10日)





あらっ。。。この記事が書き終わってないのに、『日本人の祖先』のリンクまで貼り付けてあるではありませんか!



せっかく図書館のページにコメントを書くのだから、ついでに、この記事のリンクも貼っておこうと思ったわけですよ。 うししししし。。。

それで、『私の日本語雑記』には、どのような事が書いてあったのですか?

日本人はさまざまな民族の血を受け継いでいるようです。 次のような面白いことが書いてありました。



(zakki.jpg)

ハワイは筏に乗った人々が南太平洋の島々に殖民していった、その最東北であるという。
ハワイ語を初めとする南太平洋諸語が海上でおらびあって通じる言葉に鍛えあげられたとしても不思議ではない。
その結果かハワイ語は世界でもっとも単純な音体系を持つという。

海上生活が言語の基本的な骨格を作るというのではない。
しかし、海上の民の言語は海上で使えるものでなければならない。
言語が耐えるべき自然的風雪である。

日本語の音体系はハワイ語の次に単純だという。
海上生活の試練を経たためだとは断定しないが、その可能性はあるのではないか。

特に琉球語の母音は a i u の3つである。
日本語(ヤマト語)の母音も、 a i u ö の4つが基本であった(大野晋 『日本語の形成』岩波書店 2002年)という。
大野氏のタミール語同系説についての言語学的論争に加わる資格は私にはないが、タミール語話者が遠路はるばる日本にこられるはずがないという異議は必ずしも成り立たないと思う。
海上の距離は陸上の距離とは違う。
南太平洋の他に、マダガスカル語がマレイ語族であってインドネシアからの五千キロのインド洋を越えての殖民によるということは確かなようである。
ヴァイキングによるアメリカ殖民の例もある。

 (中略)

日本人の由来を DNA で調べてみると、これほど多数の民族が集まっているところはないぐらいだそうである。
よくは知らないが、北から数えれば、北中国、南中国、東南アジアあたりは誰でも思いつきそうだが、シベリアの民族もあれば、何とコーカサス人種もあり、アフリカ人もあるそうである。
欧米人は、日本人ほど顔の多様な民族はないという印象を持つようだ。
なるほど、友人でも彼は何人、彼女は何人と言えそうな人が多い。
皮膚科の教授から日本人の少なくとも一部には白人の血が混じっているといわれたこともある。
代表的な日本人の顔があるだろうか。
共通性は表情や仕草から生まれているのかもしれない。

民族移動には東に向かったものも居るだろう。
1万年前にベールング海峡が陸地になった時、そこを通って北アメリカに渡った民族移動があったことはわかっている。
その支流がこの列島に向かったのかもしれない。
古来、ユーラシア大陸には戦乱が多かった。
それに、日本が東アジア大陸から分離し海に囲まれた島になると、気候は一変して温暖となった。
日本の吸引力は大きかっただろう。
そして、太平洋岸の怒涛を前にして、ここで落ち着くことを決めたのだろう。
日本列島の原住民がこうしてできた「化石他民族」であっても不思議ではない。

赤字はデンマンが強調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




79 - 83ページ
『私の日本語雑記』
著者: 中井久夫
2010年9月6日 第4刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店 




これを読んで僕は思い出しましたよ。



何を思い出したのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんは何も思い出さないのですか?

『失楽園』のことですか。。。?

やだなああァ~。。。『失楽園』の事など話題にしてませんよ。 「人種の坩堝」のことですよ。

なぜまた急に「人種の坩堝」なのでござ~♪~ますか?

急ではありませんよ。 上で引用した中に次のように書いてあるではありませんか!

日本人の由来を

DNA で調べてみると、

これほど多数の民族が

集まっているところは

ないぐらいだそうである。


このように書いてありますよ。 つまり、日本は昔「人種の坩堝」だったのですよ。。。卑弥子さんはすっかり忘れてしまったようですね。 僕がわざわざ卑弥子さんを呼び出したのは、もしかしたら昔、次の記事の中で「人種の坩堝」について語り合ったことを覚えているかな?。。。そう思ったからですよ。



『昔むかし、日本は人種の坩堝だった?』

(2005年8月19日)




「人種の坩堝」でござ~♪~ますか? そのような事をデンマンさんと語り合いましたかしら。。。?



じゃあ、卑弥子さんが思い出せるように出だしだけ書くから読んでみてください。

 (すぐ下のページへ続く)


by denman705 | 2012-04-10 10:02 | 日本史
日本人の祖先(PART 2)


 
日本人の祖先(PART 2)


Kontiki (kontiki2.jpg--300x216)


ノルウェーの探検家・人類学者のトール・ヘイエルダールさんが1947年に、上の絵のような、いかだ舟コンティキ号(Kontiki)によって、南米からポリネシアまでの約7千キロにわたる太平洋横断航海して世界から脚光を浴びたことがあります。
でも本当に、こんな筏で、7,000キロも漂流したんでしょうか?
嵐に出会ったらひとたまりも無く、粉々に分解してしまいそうにみえますねェ。
でも、何とか無事に航海を果たしました。

彼は1936年に調査のためにマルキーズ諸島を訪れた際、ポリネシア人の起源が西方にあるとの定説に疑問を抱き、南米から移住してきた可能性があると提起しました。
自説を実証するために南米のインディオが用いたバルサ材のいかだを復元し、コンティキ号と名づけ漂流実験を行なったんですね。
そして、見事実証しました。

このことからも分かるように、古代人は私たちが考える以上に海のハイウエイを頻繁に利用していたんですね。
マヤ人が、太平洋を島伝いに航海して、インドネシアに漂着したということも、決して不可能ではありません。
また、バリ島から黒潮に乗って日本へやってくることも十分に考えられます。




『昔むかし、日本は人種の坩堝だった?』より
(2005年8月19日)




このすぐ後で卑弥子さんが登場するのですよ。






では、マスコットガールの卑弥子が

ご案内いたしま~♪~す。





主な潮流 (Major Ocean Currents)

1 - Gulf stream

3 - Laborador current

7 - North equatorial current

8 - North equatorial counter current

9 - South equatorial current

10 - South equatorial counter current

11 - Equatorial counter current

12 - Kuroshio current

14 - Alaska current

16 - California current


上の地図で見るとおり、海にはたくさんのハイウエイが走っているんですね。
7号ハイウェイの北赤道海流に乗ると、これは黒潮と合流して間違いなく日本へ着いてしまいます。
また中国沿岸沿いにも海流が日本を目指して流れていて、このハイウェイに乗ってやってきたのが、例の鉄砲を日本へもたらしたポルトガル船だったというわけです。

海洋民族は、風の吹く方向、雲の動き、海面の波の様子、鳥の飛行状態、漂流物、海水の色、匂い、透明度などから、これらの海のハイウエイを的確に見出して航海するといわれています。
私たちがちょうど地図を見てナビゲートしながら高速道路を通って目的地へ行くようなものです。
海にあまりなじみの無い生活をしている現代人には、想像もつかないほど、彼らは、この海のハイウエイを利用して、交易や、文化の交流を深めていたようです。




『昔むかし、日本は人種の坩堝だった?』より
(2005年8月19日)




どうですか? 今度は思い出したでしょう!? こうして卑弥子さんも説明していたのですからねぇ!



あらっ。。。このような事をあたくしはしゃべっていたのでしょうか?

やだなあああァ~。。。んもお~~。。。まだ、10年経ってないのですよ。 すっかり忘れてしまうなんて無責任だと思いませんか?

でも。。。、あたくしは。。。、あたくしは源氏物語の研究に忙しくて海洋民族どころではござ~♪~ませんでしたわ。 

つまり、上のような事をしゃべったけれど、卑弥子さんは全く理解していたわけではないのですね!?

もちろん、しゃべっていた時には解(わか)っていたつもりでしたわよう。

でも、全く思い出さなかったじゃありませんか! つまり、海洋民族のことなど興味がなかったのですよ。 そうでしょう!?

だってぇ~、源氏物語の研究に忙しかったのですわ。。。海洋民族のことを調べたからってぇ、結婚できるわけではありませんものォ~。。。

あれっ。。。じゃあ、源氏物語を研究していれば結婚できるとでも言うのですか?

その方が可能性があると思うのでござ~♪~ますわ。 うふふふふふふ。。。

しかし、卑弥子さんは源氏物語の研究を15年以上続けているのにまだ結婚できないでしょう!?

デンマンさん!。。。いい加減にしてくださいましなア! あたくしの結婚のことなど、この際、関係ないことですわ。 いったい、何が言いたいのでござ~♪~ますか?

うん、うん、うん。。。確かに、言われてみれば、卑弥子さんが独身のままあの世に行こうと、駄目な男に引っかかって妊娠しようと、僕にはどうでもいいことですよ。 うへへへへへ。。。


 


やだわあああァ~♪~。。。デンマンさんがこのようなお写真をでっち上げてネットで晒すので、あたくしの縁が遠のいてしまうのですわ。 だから、未だにお婿さんのきてがないのでござ~♪~ますわ。。。失楽園ですわ。 んもお~♪~



卑弥子さん。。。今日の話題は『失楽園』ではないのですよ。

デンマンさんが『失楽園』の画像などを持ち出してくるからいけないのですわ。

分かりました。 いつまでも卑弥子さんの結婚のことに付き合っている暇はないのですよ。 僕が言いたいのは、古代の日本は難民の吹き溜まりのような場所だったのですよ。 大陸から戦乱を逃れて北から、西から、いろいろな民族がやって来た。 ペルシャ人もいればユダヤ人もいたでしょう。

柴田さんが持ち出してきた「河童」や「天の邪鬼」はペルシア人やユダヤ人のことなのでござ~♪~ますか?

当たらずとも、遠からずですよ。 それに忘れてならないのは海洋民族が黒潮に乗って日本にやって来たことですよ。

その根拠でもあるのですか?

あのねぇ~。。。、韓国語は日本語よりも母音の数が多い。 古代の朝鮮語ではもっと母音の数が多かった。 朝鮮語の影響を受けたけれど日本語は、母音の数ではずっと少ない。

どうして。。。?

南方から海洋民族が日本にやって来たからですよ。 聞き取りにくい母音は次第に使われなくなってゆく。 お互いに聞き取り易い母音だけが日本語として定着してゆくのですよ。 それで、日本語の音体系はハワイ語の次に単純になったのですよ。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
日本語の音体系はハワイ語の次に単純になったのは、日本が古代に難民の吹き溜まりだったからでしょうか?
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。








ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

地理的に見て、朝鮮半島と日本の関係は先史時代から切っても切れない関係にありました。

昔は、朝鮮半島と日本は、文字どうり陸続きで結びついていたわけです。

そういうわけで、朝鮮半島の文物は、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えてきました。

このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然なことです。

例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように書かれています。

しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドウ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法があって、古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記していたのです。

したがって、日本の万葉仮名はこの吏読からヒントを得て作られたと考えたほうが自然です。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。

このため現代の国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

しかし、韓国人が万葉集を読むと、日本の専門家でなければ区別できない甲類と乙類を、一般の人でもごく簡単に区別することができるそうです。

実際、研究者の中には、古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、現在の韓国のように、さらに3つの異なる母音「イエオ」があったのではないか、と考えている人たちもいます。

現在の韓国語には10種類の単母音と、2つ以上の母音が合成されてできた複合母音が11種類あります。

古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。

古代日本語は古代朝鮮語から強い影響を強く受けていましたから、たくさんの母音があったとしても不思議ではありません。

でも、現在の日本語では母音は5つです。

やはり、他民族が一緒に暮らすようになると聞き取りにくい母音は使われなくなってゆくようですわ。


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。


(sylvie122.jpg)

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



(juneswim.jpg)


by denman705 | 2012-04-10 10:00 | 日本史
日本人のルーツ(PART 1)
 
 
日本人のルーツ(PART 1)
 
  

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?

 
 

 
 
もちろん、日本人です。
そうじゃないと言うつもりなど、もちろん私にはありません。

しかし日本人の定義となると、大変に難しい。
おそらく、絶対にこれだ、という定義はないでしょう。
たとえば、私の場合、両親は共に日本で生まれて日本で育ちました。
私の知る限り、私の家系には、日本人以外の血は混じっていません。
しかし家系といっても、たどれるのは、せいぜい幕末までです。
子供の頃、仏壇のなかに首を突っ込んで一つ一つ位牌を手にとって、没年を確かめたことがあります。
もちろん、しかられました。
その時、安政何年というのを見た覚えがあります。

しかし誰が一体、私の体の中に、古代韓国人の血が混ざってないと断定することができるでしょう?
おそらく、私のこれまでの話を読んでくれていたなら、先ず間違いなく入っているだろうと思うのが自然です。
むしろ、95パーセントが渡来人の血で、残りの5パーセントがアイヌ系の原日本人の血だと私は結論付けています。

Kato Kiyomasa (kiyomasa.gif--187x187)



しかし、だからといって、私のことを、渡来系の日本人だと言う人は居ません。
前にも書きましたが、私の先祖は、加藤清正だと言ったところで、まともに信ずる人は居ないでしょう。
あまりにも古すぎて、血筋をたどるのは、先ず無理です。
家系図があったとしても、先ずそんなものは当てになりません。
日本では、全く血縁のない人でも、養子になって、家系図に載ることがありますから。
しかも、もっとひどいのになると、家系図を偽造したり、買ったりしましたから。

しかし、加藤清正は、1562年生まれです。
我われが、問題にしている日本古代から比べれば、まだ最近だといえるでしょう。
それでも古いと感じるのですから、呉人が日本へ呉服をもたらした、西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。



しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。



隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?



サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。

したがって、この時期に藤原鎌足が父親の御食子(みけこ)と共に、百済からやって来たとしても、まったく不思議ではありません。
むしろ、その方が、話はスッキリします。

 

藤原鎌足が百済から

やって来たという

確証があるの?




残念ながら、確証はありません。
しかし、それに近い状況証拠のようなものならあります。
このことはすでに述べましたが、重要なことなのでここにまた改めて書きます。
『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)7月の項に、次のような記事があります。


右京の人正六位上栗原勝子公言す。
子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖、天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり。
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、彼の土の女を娶りて,二男を生み、名づけて本大臣、小大臣といふ。
はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。
時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。
その後、居に因って、氏を命じて、遂に栗原勝の姓を負へり。
伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。
是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ。


ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。
そして、その人を説明して言います。
この伊賀都臣(いかつのおみ)は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると。
要するに、神代の天御中主命を持ち出してきて、ここに、中臣氏が、古来から、日本に土着した氏族であることを印象付けています。

しかし、すでに述べたように、古事記において、中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い家系であるか、と言う事を、それとなく述べています。
でも、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書いてありません。
書きたくてもかけなかったと言うのが真相でしょう。
変なことを書くと嘘がばれますから。
それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに、日本古来の氏族であることを述べています。
ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。
20世と言うと、一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。
仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?
多分怪しんでかかるでしょう。
しかし、誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか?
私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二敵ぐらいは混じっているかもしれません。

上の記述で延べていることは、言ってみれば、そのような程度のことです。
それを、わざわざ、書いているわけです。
もちろん、それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。


ここまで書けば、もう大丈夫だろう。
我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。
そろそろ本当のことを書いても、
我われが、百済からやってきたとは、もう誰も思うまい。


そういう作為が感じ取れます。


伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。
その子供たちがやがて成長して、日本にやってきた。
その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになったと。


さらりと述べています。
注意して読まないと、読み飛ばしてしまいそうな箇所です。
しかし、この意味は非常に重要だと私は思います。
なぜか?
それは、編集に携わった藤原氏が、彼らの祖先、藤原鎌足あるいは、彼の父、御食子(みけこ)が百済からやってきたということを、それとなく示唆しているからです。

中臣氏は古くからいた渡来人であったでしょう。
しかし、藤原氏が中臣氏と同じように古い渡来人であったとはとても考えにくい。
一番可能性があるのは、この当時、日本へ渡来して婚姻に因って、中臣氏の中へ入っていったということです。
それを、日本書紀では、あたかも、自分たちが中臣氏と同じ程度に古い氏族であるように書こうとしている意図が読み取れます。

しかし結局は藤原氏という形で中臣氏とは袖を分かちます。
いったんは中臣氏の中に溶け込もうとしましたが、もともと、仏教の影響を受けてきましたから、古来の中臣氏とは水が合いません。
しかも、仏教を取り込まないことには政権を保てません。
そのことは、蘇我氏を見ていて、鎌足は十分知っていたはずです。

いろいろなことをでっち上げて、『教え』を書いたつもりでも、よく読めば、その中に、真実の破片が見えてきます。
『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』という書物は、もちろん、史実も書いてあります。
しかし、藤原氏の都合のよいように、かなりの事実がゆがめられて伝えられています。
ここのところを注意して読む必要があるのではないかと思います。

 


藤原鎌足は

「六韜(りくとう)」を

愛読していた。




この六韜は、周の太公望の撰とされているので、かなり古いものと考えられます。
しかし、現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。
また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書があり、これは3巻からなる兵書です。
これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の上で漢の張良に授けたと伝えられています。
しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。
日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。 

「三略」が「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれること、また、「三略」が日本へは、遣唐使上毛野真備によって初めて伝えられた、ということを考え合わせれば、「六韜」がそれほど早い時期に日本へ紹介されたとは思えない。
遣唐使が始まったのは、舒明天皇2年(630)ですから、藤原鎌足の生まれた年を614年とすれば、日本へ紹介されたのが遅すぎるのではないか?
むしろ、鎌足が百済にいる頃から愛読していたと考えたほうが、筋が通ります。

漢字については、すでに触れましたが、漢音、呉音という読み方があることから、藤原鎌足の時代には、漢字がすでに日本人の中に入り込んでいたでしょう。
しかし、この当時はまだ学校というものがありません。
では、日本人はどのようにして漢字を習得していったのか?
先ず間違いなく、渡来人や帰化人から習ったでしょう。
それから、遣隋使、あるいは遣唐使として中国へ行って勉強してきた人から、個人的に習得しているはずです。

したがって、どういうことが言えるかといえば、日本人の中で漢字を知っている者はそう多くはない。
せいぜい大和朝廷に役人として雇われている者、しかも、文書にかかわる仕事をしている者に限られていたでしょう。
すると、数はかなり限られてきます。
渡来人や帰化人の数ほど多くはないはずです。
むしろ、日本人に漢字を習わせて、役職に就けるよりも、渡来人や帰化人に日本語を習わせて、役職に就けるほうが、手間、暇がかからなくて、話は簡単です。
いずれにしても、外国からやってきた人たちは、日本語を勉強しないと生活してゆけないわけですから。

藤原鎌足が生きていた時代というのは、このような状態だったわけです。
しかも、「六韜(りくとう)」という書物が、日本へ紹介されていたとしても、まだ日が浅い。
渡来人や帰化人のすべてが「六韜(りくとう)」を知っていたとはかぎりません。
このような時に、藤原鎌足は「六韜(りくとう)」を愛読していたわけですから、彼が百済からやってきた人だと考えたほうが筋が通ります。
鎌足が日本で生まれたとするならば、彼の父親、御食子(みけこ)を百済から渡ってきた人と考えないと、藤原鎌足が「六韜(りくとう)」を愛読することができた、とは到底考えにくい。

 

日本で一番古い書は?




現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
鎌足が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)~720(養老4)】の時代です。

712年に成立と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが居る。それが不比等だというわけです。

しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。

日本史の時間に、私は、こんな風に教わりました。


天武天皇は壬申の乱の後、歴史をまとめ、後世に残そうとした。
それで、稗田 阿礼(ヒエダノアレ)にそれを誦み習わせた。
しかし、それだけで終わっていた。
その後、持統・文武両天皇を経て、元明天皇の時代に、太安万侶(オホノ ヤスマロ)に命が下った。
安万侶はそれにより阿礼の誦習した事柄を編集して古事記を作成した。
そして712年に元明天皇に献上した。


ここで忘れてはならないことがあります。
藤原不比等の以前の名前は、史(ふひと)なのです。
不比等は、これ以外にも百済流の名前を持っていたはずです。
いずれにしても、この史(ふひと)という名前は、普通の名ではなく、むしろ彼の若い頃の役職名を表すものだったでしょう。
つまり歴史編纂に携わっている者という意味です。
日本史の先生はこんな風に説明したものです。


 (すぐ下のページへ続く)

by denman705 | 2012-04-09 08:36 | 日本史
日本人のルーツ(PART 2)


 
 
日本人のルーツ(PART 2)
 


その頃の日本人はまだ字を書ける人が少なかった。
したがって、この稗田阿礼(ヒエダノアレ)も、いろいろな人から、日本の歴史に関する話を聞いて記憶した。
元明天皇の時代になって、やっと自由自在に字を書ける日本人が現れた。
そこで、太安万侶(オホノ ヤスマロ)に命じて稗田阿礼が暗誦していた事柄を筆記させた。


その時は、なるほどと思いながら先生の話を聞いていたわけですが、考えてみると、こんな馬鹿げた話はない。
先ず不比等が字を書けなかったということはありえません。
上のように説明されれば、古事記が日本最古の書だということがよーく分かるわけです。
しかし、先ほども書いたとおり、渡来人や帰化人がたくさん日本に居るわけですから、字を書ける人が少なかったなどとはいえません。
現存の書のうちでは古事記が最古といえども、それ以前に書物がなかったかといえば、決してそうではない。

つまり、渡来人や帰化人や一部の日本人が書いた書物が、結構たくさん存在したのです。
諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)ということで、いかにも言い伝えで、書かれたものでないような書き方をしていますが、実際には書かれたものがほとんどだったでしょう。

Map of Japan and Korea with immigration routes (japan05.gif--480x336)

すでに、継体天皇のところで述べましたが、日本海沿岸には、上の地図に示すように、たくさんの難民が朝鮮半島から流れ着いて、出雲王朝をはじめとして、継体天皇がいた、現在の福井県や、また新潟県、秋田県のあたりまで、地方王朝
がたくさんあったはずです。
難民、つまり、渡来人は、こうした王朝に仕えて、歴史書編纂にも加わっていたはずです。

 


古事記より古い書物が

どうして残っていないの?




それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。
その集めたものがどうなったかというと、すべて焼き捨ててしまったのです。
詳しいことは、次のぺージで説明します。

古事記より古い書物がどうして残っていないの?




初出: 『今、日本に住んでいる人は日本人でないの?』
    (2003年7月17日)






コメント




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Date: 03/05/2010 7:45:39 PM
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日本時間: 5月4日(火曜日)午前11時45分
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May 03 2010 / 19:45:38
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userid = barclay1720
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Your_Email_Address = asukanokaze@hotmail.com
(プライバシーを守るためにアドレスは変えてあります)

Comments :


藤原鎌足に興味のある私にとって非常に参考になりました。
よく調べていると感服しました。

藤原氏の氏寺である春日大社に鹿島神宮の主祭神建御雷神が祭られている所から、鹿島出身だと主張する人もいます。
私も千葉県に住んでいますので心情的に同調します。
ただ、鹿島の宮司さんに聞いても鎌足鹿島出自には否定的でした。
不比等の子の四兄弟が唱えたのかもしれません。

大陸の戦乱を逃れた弥生民族が先住民を追い、弥生人同士の権力闘争によりつぶし合いを演じて飛鳥文明を築いた。
鎌足不比等と二代続けて偉人を輩出した藤原氏が、蘇我氏の良い所を模倣し、武力を放擲して政治書である六韜の権謀術数を用いて戦前までその地位を保ったのでしょう。
いずれにしても私のアドレスに使うほど、飛鳥はロマン的な時代です。

新藤 大吾


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Subj:バンクーバーの藤原鎌足です。(微笑)

コメントありがとうございます。




Date: 03/05/2010 11:52:16 PM
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日本時間: 5月4日(火)午後3時52分
From: denman@coolmail.jp
To: asukanokaze@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com


新藤さん、コメントありがとうございます。
久しぶりでコメントらしいコメントを読ませていただきました。
10年程前には、新藤さんが書くようなコメントを書いてくれる人は結構多かったのですが、最近は、やたらにスパムコメントが増えました。
まともなコメントをもらうことはまずありません。

『今、日本に住んでいる人は日本人でないの?』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/rikutou2.html

新藤さんが読まれた上の記事は2003年7月17日に書いたものです。


(gog20408b.gif)

歴史は繰り返す。

歴史を学ばない者は

失敗を繰り返す。


歴史に夢とロマンを感じながら、人生の糧(かて)になればと思いつつ時間のあるときに調べながら、コツコツと書いたものでした。
読んでくれる人が居ると知れば、書いた甲斐があると、さらに記事を書く励みになります。
また、新藤さんのような、まともなコメントを書いてくれる人がいると、さらに記事を書くのに励みになります。

最近、ネットをサーフィンしていて気づくことは、はっきり言って歴史にロマンを感じている人が少ないですよね。(微笑 & 苦笑)
お互いに歴史にロマンを感じながら一度だけしか生きられない人生を大いに楽しみましょう!

5月8日のブログの記事に新藤さんのコメントを使わせてもらいます。
時間があったら次のサイトで読んでみてください。

http://denman705.wordpress.com/

日本は、GW の真っ最中ですよね。
歴史の本でもたくさん読んでください。
では、元気で。。。



 

【卑弥子の独り言】



デンマンさんが真面目にお話してくださいましたわ。
いかがでござ~♪~ましたか?

もし、あなたが古代史に興味があるなら次の記事も読んでみたいと思うかもしれません。
時間があったら、ぜひ読んでみてくださいまし。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。








ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』





こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma'am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you ...?

Would you ...?

May I ...?


(juneswim.jpg)

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。



『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ





by denman705 | 2012-04-09 08:36 | 日本史
末裔の足跡(PART 1)
 
末裔の足跡(PART 1)




(yakunin2.jpg)


(fprints.png)


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Date: Thu, Mar 22, 2012 9:20 pm
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Mar 22 2012 / 21:20:44

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Your_Email_Address =
yasu60@******.plala.or.jp

Comments:


初めまして、いろいろ文献を読んで、貴殿のサイトにたどり着きました。
私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。

藤原の由来は、安東将軍で、トウタン、トルファンであると思います。
近衛文麿が陸軍を先導して太平洋戦争まで持ち込み、強いては、天皇の座まで狙った。
それを知っている、昭和天皇は、愛知県にある東条秀樹の墓参りをして、これをわびた、と思っています。

現在ですら、NHKの作った大化改新は愚作の極みで下らない出来で日本人の恥と思える作品です。
あたかも、現代の中国、韓国の思想に近い、考えの人が作ったと解ります。
今ですら藤原が怖いと思っている人がいる。

我々は、法の元で平等で自由で公平な目で物事を判断できる。
我々は道徳を重んじ、恥を最も嫌う優秀な日本人である。
それが、現在の米国、英国、ロシア、イスラエル、中国、韓国人とは決定的に違う民族である、と思います。


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デンマンさん。。。また、柴田さんからのコメントでござ~♪~ますか?



卑弥子さんは飽きてしまったのですか?

だってぇ、同じコメントを2度読むのは退屈ですわよ。

今日はコメントの内容ではないのですよ。 コメントを書いてくれた柴田さんは、どうやって僕の記事を見つけたのだろうか?

検索エンジンに決まってるじゃござ~♪~ませんか!

だから例えば、どの検索エンジンを使ったのか? GOOGLEか? Yahoo!? それとも Bing? また、検索したのならば、どんな検索ワードを入れたのか? 

そのような事まで判るのでござ~♪~ますか?

判ります。

つまり、柴田さんの足跡をたどるのでござ~♪~ますか?

そうですよ。 面白いと思いませんか?

大して面白そうではありませんけれど、デンマンさんがせっかくそのような話題を決めたのですからお話だけは伺いますわ。

なんだか卑弥子さんは、つまらなさそうですね。 無理してまで僕の話に付き合う必要はないのですよ。

だったら、帰らせていただきますわ。 じゃあ、またそのうち。。。ごきげんようさようなら。。。

卑弥子さん!。。。ちょっと待ってくださいよ。。。帰ってもらっては困るのですよ。 せっかく、こうして話し始めたのだから、最後まで付き合ってくださいよ。

だってぇ、無理してまで付き合わなくてもよいと言ったばかりじゃござ~♪~ませんか!

まさか、卑弥子さんが帰ると言い出すとは思わなかったから、つい口走ってしまったのですよ。 うへへへへへ。。。 決してつまらない話ではありません。 卑弥子さんにとってもマジで興味深い話なのですよ。

だったら、初めからそう言えばよろしいではござ~♪~ませんか。 んもおおォ~。。。

じゃあ、まず、その面白いリストから見てください。




(hg20324h.gif,hg20324k.gif,hg20324m.gif)



あらまあァ~。。。ずいぶん長いリストだことォ~。。。よくまあ、これほど長いリストを作ったものですわね。



検索キーワードを見ているだけでも面白いですよ。 これなら卑弥子さんも喜んで読むだろうと僕は思いましたからね。

つまり、あたくしがエロい検索キーワードに興味があるとデンマンさんは信じているのですか?

あれっ。。。違うのですか?

んもおおォ~。。。失礼しちゃうわア! あたくしはこれでも京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している准教授なのでござ~♪~ますわ。 慎み深く、高尚な心を内に秘めた純粋な大和撫子(やまとなでしこ)なのですう。

でも。。。、でも。。。、源氏物語は古典のエロ話だと信じている日本人はかな~り居るのですよ。

あらまあァ~。。。それは日本の古典に対する冒涜(ぼうとく)であり、陵辱(りょうじょく)でござ~♪~ますわ。

あのねぇ~、卑弥子さんがそれほどムキにならなくてもいいのですよ。 上の検索キーワードを見ただけでも、人間はいかにエロい話題を好むかという証拠なのですよ。 卑弥子さんだけがエロい話に興味があるわけではないのです! 改めてじっくりと上のリストを見てくださいよ。 検索ワードの件数が 385ですよ。 その中で歴史に関するものは、わずかに一つだけ。。。、「古事記」だけなのですよ。

「大奥」がありますわ。

あのねぇ~、確かに「大奥」は江戸時代の幕府の制度だけれど、歴史に興味を持ったから「大奥」で検索したわけではないのですよ。 大奥についてのエロい話が読みたくて「大奥」で検索したのですよ。

デンマンさんが次の記事でエロい話を書いているから、エロいお話を求めて「大奥」で検索して読みにやってくるネット市民の皆様が居るのでござ~♪~ますわ。


(jbeauty2.jpg)

『大奥』



確かに、上の記事の中にはエロい話もでてきますよ。 でもねぇ、僕はエロい話よりも、極めて真面目な歴史や政治の話などもたくさん書いているのですよ。



その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

もちろん、ありますよ。 次のリストを見てください。


GOOGLEの検索結果

2012年3月16日(金曜日)現在

「日本 デンマン」 408,000 (108,000)

「ブログ デンマン」 397,000 (101,000)

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「海外 デンマン」 228,000 (43,700)

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「アクセス デンマン」 202,000 (51,000)

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「エッチ デンマン」 135,000 (38,600)

「国際 デンマン」 131,000 (30,200)

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「政治 デンマン」 118,000 (27,400)

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「結婚 デンマン」 111,000 (34,600)

「環境 デンマン」 108,000 (30,600)

「カナダ デンマン」 106,000 (30,200)

「戦争 デンマン」 105,000 (18,900)

「教育 デンマン」 101,000 (25,400)

「京都 デンマン」 85,600 (31,200)

「科学 デンマン」 80,400 (73,300)

「イギリス デンマン」 76,400 (19,500)

「風呂 デンマン」 72,400 (24,500)

「レンゲ デンマン」 72,100 (26,100)

「文学 デンマン」 67,700 (20,100)

「コンピューター デンマン」 67,000 (22,000)

「小百合 デンマン」 66,500 (21,500)

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「セックス デンマン」 64,600 (14,500)

「芸術 デンマン」 63,900 (16,500)

「卑弥子 デンマン」 62,200 (24,200)

「平和 デンマン」 62,000 (10,800)

「ジューン デンマン」 58,200 (19,200)

「めれんげ デンマン」 56,900 (34,800)

「キス デンマン」 52,200 (9,830)

「ヨーロッパ デンマン」 47,800 (9,320)

「性交 デンマン」 41,700 (13,000)

「おばさんパンツ デンマン」 26,000 (7,890)

「天才 デンマン」 25,700 (3,340)

「源氏物語 デンマン」 13,900 (10,200)

「床上手な女 デンマン」 5,080 (4,160)




デンマン注: ( )内は 2011年6月7日(火曜日)の検索結果

『エッチな人間合格』より
(2012年3月16日)




見れば判るでしょう! エロい話よりも、エロくない話の方が圧倒的に僕の記事には多いのですよ。



それにもかかわらずネット市民の皆様はエロい話を求めてエロい検索ワードを入れて検索結果からデンマンさんのブログのエロい記事を読みにやって来ると主張なさるのですか?

その通りですよ。 上の長い検索ワードのリストと、すぐ上の検索結果を見れば一目瞭然でしょう! 人間というのは本音ではエロい話が好きなのですよ。

解りましたわ。 柴田さんはエロい人間の中でも、ただ一人「古事記」を入れて検索してデンマンさんの記事を読み、さらにコメントまで書いてくれたという貴重な存在だとデンマンさんは断定なさるのですわね?

まさに、その通りですよ。 上の長いリストを見てくださいよ。 3月15日から24日までの10日間に、これだけの人が検索して僕の記事を読みにやって来た。 ほとんどがエロい検索ワードの羅列の中で、一つだけ「古事記」が光っているでしょう!? うへへへへへ。。。

この10日間に延べ 1、863人のネット市民の皆様が検索エンジンから「デンマンシンジケート」のブログとホームページにやって来たということですか?

その通りですよ。


(hg20324c.gif)



これが「デンマン・シンジケート」とのリストと最近のアクセス状況のグラフです。



去年の12月から急に増えていますわね。

あのねぇ~、去年の11月までは Denman Blog (denman word press)だけが記録されていたのですよ。 11月下旬に 他の17のブログと ホームページ(Beaverland Web)を加えて「デンマン・シンジケート」として記録し始めたのです。 そのような訳で去年の12月から急にアクセスが増え始めたのです。

。。。んで、それぞれのブログやホームページのアクセス状況も解るのでござ~♪~ますか?

解りますよ。 次のリストを見てください。


(hg20324b.gif)



柴田さんがコメントを書いた記事というのは Beaverland Web というホームページにあるのでしょう?



そうです。

アクセス数では11位で、あまり多くはありませんわね。

でも、ライブドアの 『徒然ブログ』 よりもアクセス数が多いのですよ。


(hg20324d.gif)



これが去年の11月下旬から記録をとり始めた Beaverland Web ホームページのアクセス数の内訳ですよ。



柴田さんは岐阜県にお住まいだということですけれど、「アクセス地図」にも出てくるのですか?

出てきますよ。


 (すぐ下のページへ続く)



by denman705 | 2012-03-28 08:49 | 日本史
末裔の足跡(PART 2)


 
末裔の足跡(PART 2)


(hg20324e.gif)



確かに岐阜県からアクセスした人がいるようですわね。 愛知県が 190人で5位ですけれど、その北隣の岐阜県は 10位以内のリストに入ってませんわね。



Beaverland Web ホームページについて調べた結果もありますから見てください。


(hg20324f.gif)



やっぱり東京都に住んでいる人が最もアクセスしているのですわね。 でも、岐阜県がリストに現れてませんわ!



残念ながらリストから外れたのですよ。 でも IPアドレス (ホスト名) で調べたらちゃんと出ていましたよ。


(hg20324.gif)



あらっ。。。15番目が柴田さんですか?

そうです。

デンマンさんも、この上のリストに現れているのですか?

3番目が僕ですよ。

3 group9.vcn.bc.ca


(hg20324vcn.gif)



こうして無料のネットワーク・サービス(Vancouver Community Network)を使ってモデム(ダイアルアップ)でインターネットにアクセスしているのです。



京都に住んでいるあたくしでも、この無料サービスを使うことができるのですか?

次のリンクをクリックすれば登録することはできますよ。

http://vcn.bc.ca/


(vcn.gif)



でもねぇ、バンクーバーに住んでいることにして登録してメンバーになることはできても無料サービスを使うにはVCNの事務所に出向いてパスポートか自動車免許書を見せる必要があるから、バンクーバー以外に住んでいる人はまず無料のインターネットサービスは使えません。



京都市内で調べてみましたけれど、バンクーバーの VCN と同じようなインターネット公共サービスを行っている NPO はありませんわ。

卑弥子さんもバンクーバーに移住して UBC (ブリテッシュ・コロンビア大学)で「日本文化と源氏物語」を教えればいいではありませんか!

ええ。。。考えてみますわ。。。んで、柴田さんがアクセスした記事も記録に出ているのでござ~♪~ますか?

出ていますよ。 次のリストを見てください。


(hg20324g.gif)



これは「リンク元URL」の詳細でござ~♪~ますか?



そうです。 僕の記事を読む前に居たページのURLのリストです。

検索エンジンが圧倒的に多いですわね。

検索してやって来る人が一番多いのですよ。 柴田さんは「古事記」で検索して関連ページを読み始めたのです。 検索結果の中に次の3つのページが出てきたはずです。

1) http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/rikutou2.html

『今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?』


(2003年7月17日)


2) http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu.html

『天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった』


(2003年7月14日)


3) http://beaverland.web.fc2.com/denman/

『デンマンプ ロフィール』



検索結果の中に上の3つのページが出てきたと、どうして判るのでござ~♪~ますか?



リスト内を "beaverland" で検索したら上の3つの URL が見つかったからですよ。

でも、柴田さんは Beaverland Web の次の3つの記事をじっくりと読んだのでしょう?


『真理とは何か?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri.html

『真理は作られた?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri2.html

『韓人(からひと)とは誰か?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri3.html


その通りです。

だったら、順番に読んだとして、『真理とは何か?』と『真理は作られた?』の URL が上の「リンク元URL」リストに出てこないとおかしいではありませんか? どうして出ていないのですか?

う~~ん。。。確かに卑弥子さんの言う通りなんだけれど、すべてのリストをくまなく探したのだけれど、出てないのですよ。

リストから漏(も)れたのですか?

たぶんね。。。何事も完璧なものはありませんからね。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
果たしてデンマンさんが言うように漏れたのでしょうか?
完璧な統計などありませんから、そのような事が起こることがあるかもしれません。
でもねぇ~~。。。
あなたは、どう思いますか?

ちなみに、最後のリストの中に表示された多く読まれた記事は次の通りです。

http://www.edita.jp/love705/one/love70578662259.html
『道鏡と床上手な女』
(2011年31月1日)

http://www.edita.jp/excite705/one/excite70531.html
『肥後ズイキが性具になったきっかけは?』
(2005年3月7日)

http://denman.anisen.tv/e56862.html
『夫婦でお風呂』
(2008年9月22日)

http://www.edita.jp/goo705/one/goo7054698.html
『熟女ヌードとデンマン(PART 2)』
(2011年11月28日)

http://www.edita.jp/himiko/one/himiko29702478.html
『少女コミック・シンドローム』
(2011年10月9日)

http://www.edita.jp/excite705/one/excite7053691.html
『中年女性の愛の生活』
(2010年3月19日)

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。








ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

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『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『天智天皇は暗殺された』
(2003年7月14日)

『アナクロニズム(2011年3月27日)』





こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma'am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you ...?

Would you ...?

May I ...?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。


(sylvie122.jpg)

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



(juneswim.jpg)


by denman705 | 2012-03-28 08:49 | 日本史
大伴柴田臣の末裔(PART 1)
 
 
 
大伴柴田臣の末裔(PART 1)
 
 

(funaoka.jpg)

宮城県柴田郡柴田町の

船岡城址公園・四保山の丘上から

白石川の堤の桜並木を見下ろす



(shibatamap.gif)


Beaverland Net Form Processor
From: yasu60@******.plala.or.jp
To: barclay1720 barclay1720@aol.com
Date: Thu, Mar 22, 2012 9:20 pm
(Pacific Daytime Saving Time)
日本時間: 3月23日午後1時20分
MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Mar 22 2012 / 21:20:44

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-shinri-superb
Your_Name = 柴田yasuhiro
Your_Email_Address =
yasu60@******.plala.or.jp

Comments:


初めまして、いろいろ文献を読んで、貴殿のサイトにたどり着きました。
私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。

藤原の由来は、安東将軍で、トウタン、トルファンであると思います。
近衛文麿が陸軍を先導して太平洋戦争まで持ち込み、強いては、天皇の座まで狙った。
それを知っている、昭和天皇は、愛知県にある東条秀樹の墓参りをして、これをわびた、と思っています。

現在ですら、NHKの作った大化改新は愚作の極みで下らない出来で日本人の恥と思える作品です。
あたかも、現代の中国、韓国の思想に近い、考えの人が作ったと解ります。
今ですら藤原が怖いと思っている人がいる。

我々は、法の元で平等で自由で公平な目で物事を判断できる。
我々は道徳を重んじ、恥を最も嫌う優秀な日本人である。
それが、現在の米国、英国、ロシア、イスラエル、中国、韓国人とは決定的に違う民族である、と思います。


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




あらっ。。。デンマンさん。。。珍しくコメントをいただいたのでござ~♪~ますか?



そうなのですよ。

つまり、柴田さんは大伴柴田臣の末裔で現在、宮城県柴田郡柴田町に住んでおられるのですか?

僕も、そう思ったのです。

それで船岡城址公園から見おろした白石川堤の桜並木の写真をデンマンさんは貼り付けたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよ。 「大伴柴田臣の末裔」と聞いて、僕はすぐに宮城県柴田郡柴田町を思い出したのです。

どうして。。。?

あのねぇ~、この町は、1970(昭和40)年のNHKの大河ドラマ『樅ノ木は残った』で注目を浴びたのです。

どのようなお話なのでござ~♪~ますか?

原作は山本周五郎さんの作品です。 江戸時代の有名な伊達騒動の話ですよ。 柴田町は、その主要人物である原田甲斐こと原田宗輔の城下町として知られていたのです。 でも、この人物は寛文事件(伊達騒動)で斬死し、原田氏は断絶するのです。


1200年(正治2年)頃 - 芝田次郎が居城。同氏は宮城小四郎家業(宮城四郎)によって追討を受ける。

16世紀初頭 - 伊達氏の家臣で柴田家の祖四保但馬定朝の居城となった。

1593年(文禄2年)- 屋代景頼が居城。

1615年(元和元年) - 原田宗資が居城。

1671年(寛文11年)- 原田宗輔が寛文事件(伊達騒動)で斬死し、原田氏断絶。

1681年(天和元年) - 柴田宗意が5000石を拝領し居城。

1694年(元禄7年) - 柴田氏が三の丸に居館を築造し、居住した。




当時、『樅ノ木は残った』は、それほど有名だったのですか?



そうですよ。 しかも、僕は学生時代に仙台で6年近く暮らしたことがある。 実家の埼玉県行田市と仙台の間を東北本線で行ったり来たりする時には決まって船岡城のそばを通った。 桜の時期には車窓から白石川沿いの堤の桜がきれいに咲きほこっているのが見えたものです。 だから、上の写真の情景は僕の眼に焼きついていますよ。 1990年(平成2年)には一目千本桜とともに宮城県で唯一、日本さくら名所100選の地に選ばれ、毎年4月中旬には多くの花見客で賑わいます。

。。。で、柴田さんは、その桜並木のお近くに住んでおられるのですか?

ところが柴田さんの IPアドレスを調べたら、東京をはさんで宮城県とは反対方向の岐阜県に住んでいることが判った。


IPアドレス: 114.185.4*.**

ホスト名:
i114-185-4*-**.s02.a021.ap.plala.or.jp

IPアドレス割当国: 日本 ( jp )
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県

プロバイダー: PLALA
IPネットワークアドレス: 114.185.0.0/17
組織名: 株式会社NTTぷらら
ドメイン名: PLALA.OR.JP
Network Service Name: NTT Plala Inc.




つまり、デンマンさんの推測は全く的外れだったのでござ~♪~ますわね。



そうなのですよ。 

柴田さんは「藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています」と書いておられますが、藤原氏の捏造で柴田氏は宮城県と岐阜県に分断されてしまったのですか?

だから、僕も調べてみましたよ。 その結果を見てください。


○「柴田」という苗字は、ある統計によると現代日本のなかでは多い方から第63位となっており、その分布が最も多い県は愛知県で、茨城県は必ずしも多いとはいえない。
しかし、その県内分布はきわめて特徴的である。
具体的には、西茨城郡友部町と多賀郡十王町友部が分布の二大拠点をなしているようであり、後者は『和名抄』の多珂郡伴部郷の地であった。
同書には茨城郡の近隣、真壁郡にも伴部郷があげられるから、茨城郡の友部も同様に古代伴部の居住に由来か。
友部はもと伴部(←大伴部)であり、大伴連の部民に由来する地名であった。
かって、十王町を含む地域を仕事の管轄地としていたことがあったが、そのときはそうした問題意識を何ら有していなかったことが惜しまれる。

○大伴連とその部民の東国・陸奥における分布は、四世紀中葉の倭建命(日本武尊)の東征に由来する場合が多く、この遠征には大伴連の祖・武日命の子弟・配下が主力部隊として随行し功績を建てた。
この辺の伝承は、大伴宿禰家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」(『万葉集』歌番4094)に詠まれる。
すなわち、「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠われるが、この情景は、大王(オホキミ)すなわち倭建命の東征関連であったと考えられる。

常陸から陸奥、具体的には茨城県から宮城県にかけての地域には、靱大伴連、大伴行方連、大伴苅田臣、大伴柴田臣、大伴白河連、大伴亘理連、大伴安積連、大伴山田連、大伴宮城連という大伴□□連(臣)という形で「大伴」(のちに「伴」)を冠する姓氏が頻出する。
これらは大伴連一族かその配下・部民の出自という系譜をもつと推される。

○柴田氏については、これらのうち大伴柴田臣との関係に注目されるが、この氏は陸奥国柴田郡(現宮城県南部の柴田郡)の地名に因んだ郡司級の地方大族であった。
なぜ古代常陸の伴部郷の地に「柴田という氏」が多いのかは不明であるが、何らかの形で陸奥国柴田郡から常陸の先住地・縁故地に帰ったものか、柴田という地名の元が常陸国にあったか、そのいずれかではなかろうか。

○中世、三河の土豪・柴田氏は、その出自を秀郷流藤原氏の下河辺一族の出で、常陸国鹿島郡の柴田に因むと伝えるが、本来、同氏が三河古族の出だとみられ、この系譜自体は仮冒ではなかろうか。
なお、下河辺一族に柴田氏があったこと、鹿島郡の柴田という地名も確認できない。
しかし、中世の常陸の前掲地区にある程度の土豪として柴田氏があったことは認めてよかろう。

○なお、尾張の柴田氏については、今のところ全く手がかりがない。
有名な柴田権六勝家を出した柴田氏については、管領家斯波氏の庶流とも伝えるが、勝家の父くらいからしか知られず、明らかに系譜仮冒であろう。
尾張に分布が多いということは、古来海神族の地であったという性格から考えれば、その流れを汲むものか、その地域を何らかの縁由で知行したものか。
いずれにせよ、柴田氏に絡む謎は多く、資料が皆無に近い。

赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。)




出典:『常陸の柴田氏について(メモ)』




岐阜県だと尾張・名古屋に近いですわね。 大伴柴田臣は、あの有名な豊臣秀吉の家来の柴田勝家と関係がある氏族なのでござ~♪~ますか?



でも、上の記事によると、「柴田権六勝家を出した柴田氏については、...勝家の父くらいからしか知られず、明らかに系譜仮冒であろう」と書いてありますからね。。。

要するに、尾張の柴田氏は大伴柴田臣と関係ないのでござ~♪~ますか?

だから、その事を柴田さんは藤原の捏造と言っているのかもしれません。

。。。で、デンマンさんは柴田さんにお返事を書いたのですか?

書きましたよ。 読んでみてください。





Subj:柴田さん、古代史へのコメント

ありがとうございました。

バンクーバーの加藤です。


Date: Sun, Mar 25, 2012 9:17 am
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 3月26日 午前1時17分
From: denman12345@infoseek.jp
To: yasu60@******.plala.or.jp
CC: barclay1720@aol.com
 

柴田さん、コメントありがとうございます。
僕の記事には、めったにコメントが付かないのですよ。
コメントを書いてくれるのは、熱心な読者か? それとも底抜けの馬鹿か? そのどちらかです。 (爆笑)

柴田さんの場合は、もちろん、「熱心な読者」です。 (微笑)


私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。


そうですか。。。柴田さんの先祖は「大伴柴田臣」ですか!?
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて困りはてている、ということですが、藤原氏のやりそうなことなので僕には柴田さんの困り果てている様子が充分に理解できますよ。

実は、僕の先祖は藤原氏の先祖と同じく百済からやって来たのです。
つまり、藤原氏とは同郷なのですよ。
もし興味があったら次の記事に書きましたので読んでみてください。



『デンマンの祖先は百済からやってきた』

(2010年8月4日)


しかし、藤原氏が「勝ち組」だとすると僕の先祖は「負け組」でして、百済軍の親衛隊の一員として 663年に唐と新羅の連合軍と「白村江」で戦い、敗れると百済の貴族・官僚などと共に日本へ亡命したのでした。 
この人たちの中には大和朝廷の役職に付いて、現在の大臣に当たる役職に付く者まで出てきます。

藤原不比等が「養老律令」を作ろうとした時に集めた、唐から帰ってきた若い留学生たちの中に百済人成(くだらのひとなり)という人物が居ますが、この人物の祖先と僕の一族の祖先は同族だったのです。
しかし、僕の祖先は要領が悪くて大和朝廷で出世することはなかったのです。
戦争に嫌気がさした僕の祖先は開拓団の一員として関東を目指して移住したのでした。
でも、百姓になりきれなくて、やがては武蔵国の豪族である成田氏に仕えるようになります。
騎馬武者だったのですが、漢学の素養を買われ、城主の祐筆(記録係)に出世します。

1590年(天正18年)の小田原の役の際には 城主・成田氏長は小田原城にて籠城しました。
嫡男・成田長親を城主とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもったのです。



忍城

僕の14代前の加藤家当主である加藤兵庫介は、この時、農民たちと行動を共にし、豊臣方の忍城攻めの総大将・石田三成と対峙したのです。

三成は、忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に本陣を置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定しました。
この時、あの有名な総延長28キロメートルに及ぶ「石田堤」を築いたのです。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになったのでした。


 (すぐ下のページへ続く)

by denman705 | 2012-03-26 08:46 | 日本史
大伴柴田臣の末裔(PART 2)

 
 
大伴柴田臣の末裔(PART 2)




(ishida90.jpg)

石田堤(いしだづつみ)


(maruhak2.jpg)

丸墓山

明治になると廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれましたが、その後廃城となりました。
僕の曽祖父は手先が器用だったので武士を辞めて忍城下で「くりもの屋」になったのです。
祖父の加藤定吉は優秀な作品を作るという定評を得て、県展に出品して大正6年に県知事より2等の賞状を頂戴しました。
しかし僕の父親が7歳の時に癌で亡くなってしまいました。
まだ働き盛りの42歳でした。

そのような訳で大黒柱を亡くした加藤家は赤貧を洗うような貧乏になってしまったのです。
僕の父・加藤佐吉は小学校を卒業すると母校の給仕をしながら独学で教員検定試験を受けて18歳のときに助教師として母校の教壇に立つようになったのです。
しかし、まもなく太平洋戦争が始まり赤紙で戦地へ引っ張られたのでした。

同じ百済からやって来たのに、「勝ち組」の藤原氏の末裔は日本帝国総理大臣の近衛文麿になりました。



近衛文麿

「負け組」の加藤家の当主・佐吉は小学校の給仕を経て助教師です。
「勝ち組」と「負け組」の差は大きい! (苦笑)

しかし、“人間万事塞翁が馬”と申します。
近衛文麿氏には1945年(昭和20年)12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられました。
巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。
僕の父親は満州から最後は沖縄戦へ転戦しましたが、幸運にも沖縄本島ではなく宮古島に駐屯したので戦死を免れたのでした。


(miyako88.jpg)


(miyako87.gif)

運命のいたずらとでも申しましょうか。。。?
どのように栄達しようとも、人の命は、このように歴史の流れとともに変わってゆくのですね。

百済難民の末裔である僕は、さらに東を目指し、太平洋を越えてバンクーバーに移住したと言う訳です。
「白村江」の戦いに敗れてから、実に、今年で 1349年目になります。

約1350年の歴史をざっと語りましたが、柴田さん、僕の家系を信じることができますか?
僕の家族と親戚の一部だけが、この家系を信じているのですよ。

しかし、藤原氏は、百済からやって来たのにもかかわらず、日本古来から連綿として伝わっている中臣氏の出身だと主張し続けています。
それが学校で教えている日本史では信じられているわけですよね。

どうして。。。?

もちろん、それを可能にしたのが『古事記』と『日本書紀』の編纂です。
「勝ち組」の藤原不比等のやる事は日本史を書き換えるようなことまでしてしまうのですよね。



中央が藤原鎌足

左が次男の不比等

右の坊さん姿が

長男の定慧(じょうえ)


僕は別に日本史を書き換えるつもりはありませんが、ネット上に加藤家の家系を広めながら藤原氏の「六韜史観」とは、どういうものだったのかを語り続けようと思っているのです。
まだまだ語りたいことはたくさんありますが、この続きは次の記事で読んでください。

『大伴柴田臣の末裔』

(2012年3月26日)


日本時間で3月26日の午前8時までには投稿します。
とにかく、コメントありがとうございました。
おかげさまで、久しぶりに自分の書いた記事を読み返して、いろいろと考えることができました。
柴田さんも、日本史を紐解(ひもと)いて、日本人とはなにか? さらに突き詰めて考えてみてください。
では。。。




柴田さんがコメントを書いたというのは、一体どの記事なのですか?



実は柴田さんは、次の3つの記事をじっくりと読んでくれたのですよ。


『真理とは何か?』

『真理は作られた?』

『韓人(からひと)とは誰か?』


どうして上の3つの記事を読んだとデンマンさんには判るのですか?

上の3つの記事を読まない限り、柴田さんには上のコメントが書けないからですよ。 

あたくしも読んでみたいのですけれど、3つも読むのは大変ですわ。

卑弥子さんが、そう言うだろうと思ったので昨日、次の記事を書きました。



『真理とは狸とイタチの化かし合い』

(2012年3月25日)




これならば一度クリックしただけで3つの記事を読むことができます。 卑弥子さんもぜひ読んでみてください。



ところで、デンマンさんは次のように書いていましたわね。




僕は別に日本史を書き換えるつもりはありませんが、ネット上に加藤家の家系を広めながら藤原氏の「六韜史観」とは、どういうものだったのかを語り続けようと思っているのです。




確かに、このように書きました。 卑弥子さんは、この文章が気に喰わないのですか?



いいえ、気に喰わないわけではござ~♪~ません。。。それで、加藤家の家系がネットで広まっているのですか?

藤原不比等は『古事記』と『日本書紀』を使って藤原氏の家系を大和朝廷が支配している全国に広めましたからね。 僕はネットを使って実験してみたのですよ。 その結果を見てください。


(gog20325.gif)



あらっ。。。結構広まっていますわね。



でも、問題は、どれだけの人が信用するかですよ。 (微笑)


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
あたくしはすでにデンマンさんの説に洗脳されてしまっていますけれど、あなたは、どう思いますか?
デンマンさんの先祖が百済からやってきたと、あなたはマジで信じることができますか?

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。








ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事





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常に本来敬称であった you のみを使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you ...?

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ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

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(junew12.jpg)


by denman705 | 2012-03-26 08:45 | 日本史
真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 1 OF 4)
 
 
真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 1 OF 4)
 
 







真理とは何か?


No absolute truth (truth02.jpg--436x578)
(truth02.jpg)


絶対の真理というものは

あるのだろうか?




おそらくないでしょう。
真理というのは、ある現象を最もよく、つまり、誰もがより容易に納得の行くように説明できる仮説だ、と私は信じています。
要するに絶対というものはないでしょう。
時代と共に新しい仮説が出て、それが、これまでの真理と思われていた仮説よりも、よりうまくその現象を説明できるならば、新しい仮説が真理として受け入れられることになります。

しかし、その認められた仮説でさえも、さらにその時代が過ぎると、新しい仮説が現れて、もっとよく、もっと広範囲の現象をより簡単に説明することができるかもしれません。
ニュートンの法則がアインシュタインの相対性理論によって修正されたのはこのよい例です。
そうなると、絶対の真理というものはないことになります。
科学技術の進歩に伴って新しい仮説が時代と共に現れてきます。



アインシュタインは特殊相対性理論を発表してから、さらに一般相対性理論を一応完成しました。
しかしアインシュタインでさえ、一般相対性理論が絶対だとは考えていませんでした。
彼はさらに重力と電磁力が同じものではないかと考え、これを証明するために「統一場の理論」を構想しました。

現在では、この2つの「力」の他にさらにもう2つの「力」(原子核と電子を結びつけている弱い力と原子核を結びつけている強い力)を含めた「統一場の理論」が構築されつつあります。
要するに、宇宙の現象をもっとよく説明できる仮説があるはずだということで理論物理学者がしのぎを削っているわけです。

最近話題になっていることでは、光より速く走るものがあるか?ということがあります。
アインシュタインによれば、光よりも速く走るものは「絶対にない」のです。
しかし、これも絶対ではないとイギリスのスティーブン・ホーキング博士が新しい宇宙論を展開しています。



光さえも抜け出せないはずのブラックホールから電磁波が出ているということでホーキング博士は相対性理論に不確定性原理を持ち込んだのです。
そうすることによって、一時的に光の速度を超えることは可能であると主張しています。

このように、絶対と信じられていた真理が新しい仮説によって覆されたり修正されたりしたことは、歴史を振り返ってみると、しばしば目にすることができます。
例えば、天動説と地動説は最もよい例です。天動説はずいぶん長いこと「真理」として受け入れられていました。
もちろん、地動説を唱える人はかなり居ました。
古代ギリシャにも居たのです。
 

(earthani.gif)
 

あまりに早く生まれすぎた

アリスタルコス

(紀元前310?~前230?)



(aristar2.jpg)



古代ギリシャで展開された宇宙に関する議論の中で、最も驚くべきものは、アリスタルコスによって唱えられた地動説でしょう。
このサモス生まれのアリスタルコスの地動説は後にアルキメデスによって紹介されています。
アリスタルコスは、三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離が月までの距離の19倍になることをつきとめたのです。

(実際には、2つの距離の比は400なのですが、この差は結論を導くまでの障害にはなりませんでした。)

これほど離れているにもかかわらず、地球上から太陽と月がほぼ同じ大きさに見えるのは、太陽が月の19倍の直径を持ち、
大きさ・質量ともに地球などとは比べ物にならないほど大きいからだ、とアリスタルコスは考えたのです。

「そんな大きなものが、地球のように小さなものの周りを回るということがありうるだろうか?」

三角測量の技法に基づいて、地球から太陽までの距離を割り出すほど頭のよい人でしたから、当然そのような新たな疑問が頭をもたげます。

確かに、巨大な太陽が小さな地球の回りをまわるのは不自然です。
アリスタルコスも、むしろ地球の方が太陽の周囲を回っているはずだと考えたのです。
これが彼の地動説です。

アリスタルコスはさらに、地球が大きな円を描いて運動しているのに、恒星の見かけの明るさや方位に季節ごとの変化が見られないことに疑問を抱きました。
結論として、アリスタルコスは、これらの星が、人々が想像しているよりも遥か遠くにあるからだと考えたのです。

しかし彼のこのような考えは、当時あまりにも奇抜だと考えられたようです。
彼の上のような説明を聞けば、現在の我われには、よーく納得が行くのですが、当時の人はそのような科学的な知識を持っていません。
アルキメデスといえども、アリスタルコスの考えを荒唐無稽として斥けてしまったのです。

しかし、上のエピソードからも分かるように、精密な観測機器を持たない時代にあっても、人間の知性は物事の本質に迫ることができたのです。


地動説が認められるまで、

なぜ1700年以上

かかったのか?






地球が丸いことも、どうやら地球が太陽の周りを回っていることも、古代ギリシャ人の中には知っている人も居たわけです。
しかし、これほど長い間天動説が真理として通用していたのは、キリスト教が地動説を認めようとしなかったことが大きく影響していました。

地動説を改めて見出したコペルニクス、ガリレイ、ケプラーは、いずれも熱心なクリスチャンでした。
しかし、キリスト教団の組織を動かしていたローマ法王や彼を取り巻く人たちが、地動説を異端視したのです。
「神は、あなた方が言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」
と言うわけです。

中世にあっては特に宗教が、そして現代にあっては政治が、科学技術の発展に大きな影響を与えています。
最近の例では、冷戦時代の月ロケット開発競争が上げられます。
冷戦がなかったら、人間はまだ月に足跡を残していなかったでしょう。


歴史の中の真理とは?


Nihonshoki or Chronicle of Japan (shoki21.gif--280x385)



歴史の中の真理も、原則として科学の中の真理と全く同じものだと考えられます。
つまり、絶対の真理というものはありません。
日本には『古事記』と『日本書紀』という歴史書が存在しています。
古代史を研究する者にとって、この両書は聖書のようなものです。
いわば、『日本古代史』教の『聖書』です。

キリスト教団の幹部たちが、地動説を異端視したことは上に述べました。
「神は、あなたが言うように地球が回っているというような宇宙を、お造りにはならなかったのだ!」とガリレオに向かってしかりつけたのでした。
『古事記』と『日本書紀』も、いわば、このような宗教的と呼ぶに等しい「思想」に基づいて書かれた書物です。

『古事記』には『日本創世記』と呼ぶにふさわしい記事が見えます。
つまり、イザナミ・イザナギの『国生み神話』です。
これこそ、ピタゴラスが聞いたなら荒唐無稽と言って笑い出すでしょう。
もちろん、皇国史観が全盛だった太平洋戦争中も、この『国生み神話』を本当のことだと考えた人は居なかったでしょう。

それでは、なぜ『国生み神話』を作らねばならなかったのでしょう?(なぜ、伝承の昔話から取り上げねばならなかったのか?)
それはごく簡単な理由です。
他の国の神話が多くそうであるように、日本という国は独自に出来上がったんだということを言いたいがためです。
『古事記』が成立したのが712年、『日本書紀』が完成したのは720年です。
この辺の事情については、このページ (日本で一番古い書は?) で説明しています。

実はこの両書が成立するまでの100余年という期間は、次に示す簡単な年表に見るように激動の時代でした。


592年

蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。




645年

中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足(藤原鎌足)と共に蘇我入鹿を討つ。
蘇我氏(本宗家)滅びる
(詳しいことはこのページ【藤原鎌足は、どのように六韜を実践したのか?】を読んでください。新しいウィンドーが開きます。)




663年

白村江の戦い
百済滅びる。 
百済の貴族・官僚などが大挙して日本へ亡命する。
この人たちは政府の役職に付く。中には現在の大臣に当たる役職に付く者まで出てくる。




671年

天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。
(詳しいことはこのページ【天智天皇は暗殺された】を読んでください)




672年

壬申の乱
天武天皇実権を握る。
この政権交代で注意する必要があるのは、藤原氏がこの政変で滅びていないということです。
むしろ、ますます栄えてゆくことに注目する必要があります。




686年

大津皇子、持統天皇に殺される。


上の一連の事件に関わりを持ち、結局実権を握ったのは誰か?という事を考えれば、ごく自然にいろいろな疑問が解決します。
もちろんそれは藤原氏に他なりません。


『古事記』と『日本書紀』は

藤原氏が政権担当の正当性を

主張するために書いた史書


「でも、学校ではそんなふうに教わらなかったけれど。。。」
そんな呟きが聞こえてきそうです。

 (すぐ下のページへ続く)



by denman705 | 2012-03-25 08:52 | 日本史
真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 2 OF 4)




 
真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 2 OF 4)

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天武天皇が『古事記』と

『日本書紀』を

編纂させたことになっているが…




現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
中臣鎌足(藤原鎌足)が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)~720(養老4)】の時代です。

古事記は712年に成立した、と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが必要になります。それが藤原不比等だというわけです。

しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。

天武天皇は新羅派の統領です。
鎌足が天武帝と協力すると言うことは、百済派の勢力をそいで新羅派に百済派の一部を持ち込むことになるからです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。

『六韜』についてはこのページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)
を読んでください。
派閥抗争についてはこのページ (天智天皇は暗殺された) を見てください。
新しいウィンドーが開きます。


『古事記』と『日本書紀』

にはなぜ謎が多いか?




ところで、古事記が日本書紀よりも古いとすると、おかしな点がいくつかあるという人たちが居ます。
例えば、



  • どちらの書も天武天皇によって編纂作業が進められた歴史書なのに、日本書紀には古事記についての記述がまったく見当たらない。

  • また、古事記の内容には日本書紀よりも新しいものがある。

  • 日本書紀には他の多数の書の引用が載っているので、他にも書があったことが分かるのだが、
    古事記には日本書紀の本文と他の書をまとめて1つの話にした神話という形で載っている。

  • 古事記の編纂者は後から作られた日本書紀の内容をどうして知っているのか?編纂者が同じだったからなのか?

  • また、風土記という書があり、元明天皇によって日本書紀と同じ年に成ったこの書の内容が、古事記にふんだんに引用されている。本当に、
    日本最古の書は古事記なのだろうか?





私は、両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが、史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと、上で指摘されたような矛盾が、ところどころ顔をのぞかせるわけです。

これは、いわば、当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は、自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は藤原氏が、日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。

何よりも、不比等が、親の七光りで、編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。


中国風史観に

こだわる執筆者たち




『大化の改新』がなぜ日本史の中で重要かというと、日本に中国風の律令国家を築く礎になったということになっています。
この『大化の改新』を行ったのは中大兄皇子であることはよく知られています。
しかし、元々この構想を持っていたのは、彼よりも中臣鎌足だったようです。
鎌足が亡くなると、彼の遺志を継いだのが、次男である不比等でした。

なぜ長男でなく次男なのか?と疑問に思う人が居るかもしれません。
実は長男の定慧(じょうえ)は暗殺されています。
生きていたら、不比等と共に相当な影響力を持ったことでしょう。
詳しいことはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) を読んでください。

大宝律令の施行令十一巻は代表責任者を天武天皇の息子の刑部(おさかべ)親王とし、実質的な編纂は藤原不比等が中心になって進めました。
700年(文武4年)に完成し翌年正式に年号を建て、大宝元年として大宝律令を施行したのでした。
唐の制度を真似しながらも、藤原不比等の眼目とするところは天皇親政から藤原氏中心の太政官制にあったようです。

大宝律令に引き続いて、藤原不比等は、もっと藤原氏と自分に都合のよいような「養老律令」を作ろうとします。
そのため、唐から帰ってきた若い留学生たちにこの仕事をやらせています。
矢集虫麻呂(やずめのむしまろ)、大倭国小東人(やまとのこあずまひと)、塩屋古麻呂(しおやのこまろ)、百済人成(くだらのひとなり)といったような人たちです。
この若い留学生たちは唐の新しい法律知識や最新の唐の政治情勢などを身に着けて帰ってきたのでした。

忘れてならない事は、これと平行して『古事記』と『日本書紀』の編纂も進められていたということです。
当然のことながらこの帰国留学生たちもこの両書の編集に加えられたでしょう。

ここで考えなければならないことは、この両書の編纂に携わった留学生や渡来人たちの史観です。
当時の日本には史観と呼べるようなものはまだ確立していませんから、これも中国の歴史書を参考にする他になかったでしょう。
むしろ中国で常識と考えられていた史観以外に持ちようがなかったと思われます。

では、この中国の史観というものは一体どのようなものだったのでしょうか?
中国ではこれまでの王朝を倒した新王朝の史官が前王朝の歴史を書くのが慣習になっていました。
結果として、現王朝の史官が現王朝の歴史を書くよりも事実に即した客観的な歴史を書いてきたのです。
つまり、歴史の偽造にこのような慣習によってブレーキがかかっていたことになります。
歴史書を書くときには勝手なことは書かないという「史観」が“史官”にはあったわけです。


六韜史観




『古事記』と『日本書紀』の編纂に携わった帰国留学生や渡来人は、先ず間違いなくこのような中国の史観に通じていたはずです。
ところが編集長として彼らを統括している藤原不比等の史観は全く彼らの史観とは違っています。
不比等の史観は、しいて言うならば“六韜史観”と呼ぶようなものです。
つまり自分の都合のよいように歴史的事実を書いてゆく史観です。

若い帰国留学生は編集長の指図に従って、不比等の言うように仕方なく書き直すことがあったかもしれません。
しかし、古参の渡来人たち、あるいは土着の豪族出身の史官の多くは、不比等が時々口を挟んで事実を編集長の都合のよいように書けという指示を苦々しく思ったことでしょう。
何よりも不比等が親の七光りで編集長になっているという事実がおもしろくありません。
しかも、勝手に事実をゆがめて書けというようなことを言う。
おそらく喧嘩になってやめていった人もいたに違いありません。
やめない人は、何とかして、事実を『古事記』と『日本書紀』の中に書き残そうと懸命に努力したに違いありません。
そういう努力が、我われの眼には“矛盾”であったり“謎”として文中に登場するわけです。


『日本書紀』の中に

隠された声




(yakunin2.jpg)

これを読む読者の皆さん。
ぜひ、文中の矛盾に気づいてください。

私たちは、編集長の理不尽な要望によって歴史的事実を曲げて書かされています。
しかし、私は何とかしてこの文章の中に真実を書きとめたいと思っています。

100年先、いや、500年先、いや1000年先の皆さんが、もしこの歴史書を読んで、これが全部事実だなんて思い込まれると思うと私は全くいたたまれません。
また、やりきれません。

こんなことは中国の歴史書を見ればお分かりの通り、やってはいけないことなんです。
本当は、こんなことには、かかわりたくありません。
やめて行った人も居ます。
しかし、誰かがこの歴史書の性格について訴えないかぎり、誤った事実が後世に残されてしまいます。

わたしの努力は微力かもしれません。
しかし、最善を尽くして文中に真実が現れるよう努力したいと思います。
そういうわけですから文章中の矛盾や謎は、どうか真実の一端だと思って読んでください。




少なくとも、『日本書紀』を読むと、所々に矛盾や謎と思われるような箇所が顔を覗かせます。その時、上のような声が聞こえてくるような気がします。
しかし、ここで個人的な感想を述べていても仕方がないので、実際、そのような矛盾とはどのようなものなのか、具体的な例を挙げてお話しようと思います。

 (すぐ下のページへ続く)

by denman705 | 2012-03-25 08:51 | 日本史