デンマンが日々思ったこと考えたこと感じた事を書きます。


by denman705
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カテゴリ:太田将宏批判( 125 )

女3人で姦しい (PART 1)



 


女3人で姦しい (PART 1)


 



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デンマンさん。。。、どういうわけで“女3人で姦しい”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?



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あれっ。。。 オマエは“姦しい3人の女”に悩まされていたんじゃないのォ~?


デンマンさんは、どうしてそう思ったのですか?


だってぇ オマエはかつて、そのように書いていたじゃないかァ!


マジで。。。?


信じられないのだったら、オマエが“間奏曲集”として投稿した中の「ヘンリー・パーセル」に関する記事を見てごらんよ!



3.2 Henry Purcell (1659 – 1695)


長女が日本語の勉強をしながら、ひとり言を言っている。それも大声で。黙って聞いていると、次のようなことをしゃべっていた。
あれえ!安い、という字には女が入っているぅ。It’s not fair!…、だけど…、勇ましい、という字には男が入っている。じゃあいいか。
分かってないんだなあ、と思って説明を始めると、勇ましいというのは、やかましいということだ、と言張ってきかない。姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。
家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている私ではあるが、それでも女性(少女)ばかりで途惑う音楽作品がある。何と、コーラスを別にしても、七人のソプラノ、一人のメッツオ ソプラノと唯一人のバス バリトンによるオペラである。その作品は、H. Purcellの<<Dido and Aeneas>>である。この少女歌劇を第一級のオペラとすることには、私も異論、異存がないが、さて、それを聴く段になると、持て余してしまうのである。
日本も英国も島国である。後者は、世界を荒らし回ることに成功したが、前者は、結局は、失敗した。しかし、そんなことは、今、本質的なことではあるまい。もっと共通しているのは、ある種の感傷癖であろう。J. Dawlandの<<Lachrynae or seven Tears figured in seven passionate Pavans>>以来のsentimentalismのことを私は言っているのである。
次女は、Act I の<Harm’s our delight>>だとか、Act IIIの<Destruction’s our delight>のlibrettoを読んで笑っていた。今どき、女学生が感傷的だ、などと言ったなら笑いとばされるであろう。わが娘たちの世代が、Act IIIの<When I am laid in earth>を聴いて涙ぐむ、などとは私の想像の彼方である。ただ、ああいう素材を男子学生が上演しよう、などという発想は、現在に於いても、過去に於いても皆無である(あった)であろう、ということは考えられよう。
雄々しい、という言葉が何か肯定的であり、女々しい、という言葉に否定的な感触があるのは、性差別以外にも理由があるのではないか。例えば、boyishな少女には、それなりの魅力があっても、girlishな男について、何か異様なものを感じるのは、むしろ、我々の感性が健全であるからであろう。私は、やはり、人類の意識の中で、或いは、古代以来の無意識の中で、男の性を人の標準とする(した)事には、根拠がある(あった)と思わざるを得ない。
これを言うと、私の娘、特に長女は怒る。パパは二人の娘がありながら、と息巻くのである。標準は、標準であって、優越性は必ずしも意味しない、というようなことを言ってごまかすが、いまだ不満げな顔をしているのである。
このオペラでは、Sailorをソプラノが美しく唱っている。
この作品には、紛失した一曲を含めて、九曲ものダンスが入っている。それらの短い挿入曲は、学芸会の雰囲気をいやがうえにも盛り立てている。いわば、高級なお遊戯、とでもいった作品ではあるが、私としては、父兄でもないのにもかかわらず、ChelseaのJosias Priest’s Boarding Schoolに紛れ込んだような居心地の悪さを感じないわけではない。
言葉を変えて言えば、このオペラは、それほどまでに出演者、演奏家にそって書かれた職人芸としての傑作である、とも言えよう。
蛇足(コーダ):
家内についても何かを書かないと彼女が僻むかもかもしれないので一言:
―― 僕は、僕の曲をどのように弾いて下さっても構わない。やっぱり、それは演奏家のなかで自分自身を新めてぶつけるわけだから、それは、僕にとって嬉しいというほかの何ものでもない。ただね、例えば、三分十五秒にあるフレーズがあるとするでしょう。それは、やっぱり、始まってから三分十五秒という音楽的な体験を経てきたうえでなければ、絶対に演奏できないフレーズなんだな。その意味で、ここからここまでを取ってつなぐというやつ、あれは、どうしても、辛いね。―― 三善晃がレコーディングについて語った言葉である。
その通りであろう。そして、それは、聴き手にとっても同様である。愚妻には、これが解らない。この人は非常に不思議な人で、私が、今は家の中が静かだから音楽を聴こう、として聴き始めると、必ず(草子地:必ずである。)、二回からトコトコと降りてきて皿洗い等をし始めるのである。そして、音楽が一時中断された後には、どうしてそれが聴き続け難いのか、それを理解できかねるらしいのである。多分、Sokratesの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である。
そういえば、Purcellは、夜、帰宅したときに、奥方の締め出しにあって、それがもとでの肺炎で死亡した、と伝えられている。男性は、女性よりも繊細である、ということか。




赤字はデンマンが強調)


41-42ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より



あのさァ~、いつも言うようだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。


それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!


 


海外からのアクセス@Denman Blog


 



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『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog


 



134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?



いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。


マジで。。。?


僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。



3.2 ヘンリー・パーセル (1659 – 1695)



(purcell02.jpg)


 



長女が日本語の勉強をしながら、ひとり言を言っている。


それも大声で。黙って聞いていると、次のようなことをしゃべっていた。




(gal767.jpg)


 


あれえ!い、という字には女が入っているぅ。


It’s not fair!…、


だけど…、ましい、という字には男が入っている。


じゃあいいか。



分かってないんだなあ、と思って説明を始めると、勇ましいというのは、やかましいということだ、と言張ってきかない。


姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。


家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている
私ではあるが、それでも女性(少女)ばかりで途惑う音楽作品がある。
何と、コーラスを別にしても、七人のソプラノ、一人のメッツオ ソプラノと唯一人のバス バリトンによるオペラである。
その作品は、ヘンリー・パーセルの歌劇<<ディドーとエネアス>>である。


この少女歌劇を第一級のオペラとすることには、私も異論、異存がないが、さて、それを聴く段になると、持て余してしまうのである。
日本も英国も島国である。
後者は、世界を荒らし回ることに成功したが、前者は、結局は、失敗した。


しかし、そんなことは、今、本質的なことではあるまい。
もっと共通しているのは、ある種の感傷癖であろう。


ジョン・ダウランドの<<Lachrynae or seven Tears figured in seven passionate Pavans(ジョン・ダウランドが作曲した楽器音楽の集まり)>>以来のセンチメンタリズムのことを私は言っているのである。
次女は、第1幕 の<害なす ことは われらが よろこび>>だとか、第3幕の<打ち壊す ことは われらが よろこび>の歌劇の歌詞を読んで笑っていた。
今どき、女学生が感傷的だ、などと言ったなら笑いとばされるであろう。
わが娘たちの世代が、第3幕の<私が地に横たわる時(歌劇「ディドーとエネアス」の17曲目)>を聴いて涙ぐむ、などとは私の想像の彼方である。


ただ、ああいう素材を男子学生が上演しよう、などという発想は、現在に於いても、過去に於いても皆無である(あった)であろう、ということは考えられよう。
雄々しい、という言葉が何か肯定的であり、女々しい、という言葉に否定的な感触があるのは、性差別以外にも理由があるのではないか。


例えば、男っぽい少女には、それなりの魅力があっても、女っぽい男について、何か異様なものを感じるのは、むしろ、我々の感性が健全であるからであろう。
私は、やはり、人類の意識の中で、或いは、古代以来の無意識の中で、男の性を人の標準とする(した)事には、根拠がある(あった)と思わざるを得ない。
これを言うと、私の娘、特に長女は怒る。
パパは二人の娘がありながら、と息巻くのである。
標準は、標準であって、優越性は必ずしも意味しない、というようなことを言ってごまかすが、いまだ不満げな顔をしているのである。


このオペラでは、船乗りの役をソプラノが美しく唱っている。
この作品には、紛失した一曲を含めて、九曲ものダンスが入っている。
それらの短い挿入曲は、学芸会の雰囲気をいやがうえにも盛り立てている。


いわば、高級なお遊戯、とでもいった作品ではあるが、私としては、父兄でもないのにもかかわらず、チェルシーのジョージアス・プリーストの寄宿学校に紛れ込んだような居心地の悪さを感じないわけではない。
言葉を変えて言えば、このオペラは、それほどまでに出演者、演奏家にそって書かれた職人芸としての傑作である、とも言えよう。


 


蛇足(コーダ):



家内についても何かを書かないと彼女が僻むかもかもしれないので一言:




(miyoshi3.jpg)


 


僕は、僕の曲をどのように弾いて下さっても構わない。
やっぱり、それは演奏家のなかで自分自身を新めてぶつけるわけだから、それは、僕にとって嬉しいというほかの何ものでもない。


ただね、例えば、三分十五秒にあるフレーズがあるとするでしょう。
それは、やっぱり、始まってから三分十五秒という音楽的な体験を経てきたうえでなければ、絶対に演奏できないフレーズなんだな。
その意味で、ここからここまでを取ってつなぐというやつ、あれは、どうしても、辛いね。



三善晃がレコーディングについて語った言葉である。
その通りであろう。
そして、それは、聴き手にとっても同様である。


愚妻には、これが解らない。
この人は非常に不思議な人で、私が、今は家の中が静かだから音楽を聴こう、として聴き始めると、必ず(草子地:必ずである。)、二回からトコトコと降りてきて皿洗い等をし始めるのである。


そして、音楽が一時中断された後には、どうしてそれが聴き続け難いのか、それを理解できかねるらしいのである。
多分、ソクラテスの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である。


そういえば、ヘンリー・パーセルは、夜、帰宅したときに、奥方の締め出しにあって、それがもとでの肺炎で死亡した、と伝えられている。
男性は、女性よりも繊細である、ということか。




赤字緑字はデンマンが強調)


41-42ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より



つまり、上のように書くべきだとデンマンさんは主張するのですか?



そうだよ。。。 その方がクラシックを知らないネット市民の皆様にとっても読み易いのだよ! それに、こういう細かい事は言いたくないのだけれど、すぐ上の文中で赤字にした二回は、明らかに二階と書くべきだったのだよ!、


誰にだって、その程度の書き間違いはありますよ。。。 デンマンさんだって、時々 書き間違ってますよ。。。


確かに、書き間違いは誰にでもある。。。 でも、僕は最低でも3度は自分の書いた記事を見直すのだよ。。。 だから、書き間違いは極めて少ないはずなんだよ。。。


オイラの書き間違いが多いとデンマンさんは言いたいのですか?


それよりも、そもそも、オマエの文章は下書きの段階で ネットで公開しているのだよ。。。


それは、デンマンさんの個人的な意見です。。。


いや。。。 オマエの上の下書きを見せられた「ボイジャー」社長の鎌田純子さんも、下書きに違いないと思って掲載を断わったのだよ。。。 それなのに、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に次のように文句を言っている! 



太田将宏著作集 (E-Book Mode)



告発状以下の筆者自身の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりました。


その一切の経過につき、筆者の告発文書、<<ボイジャー、ロマンサーへの抗議録>>を
上の告発状をclickして御参照願います。




Ⅰ あれかこれか


哲学 (実践知性批判、Sartreを中心に)、


神学(純粋意識批判、Kierkegaardを中心に)




Ⅱ 愛と生命の摂理


文学(ドストエフスキーを中心に)




Ⅲ 前奏曲集 第一集


音楽(あるアマチュアの覚書、(批評の批評 ⅰ)




Ⅳ 前奏曲集 第二集


音楽(私はアマチュアである、(批評の批評 ⅱ)




Ⅴ 間奏曲集


音楽(主題なき変奏、(言葉と音楽 ⅰ)




Ⅵ 後奏曲集


音楽(後書きばかり、(言葉と音楽 ⅱ)




Ⅶ 瞬間


書簡集




『EBOOK MODE』より


『失意の太田将宏』にも掲載
(2015年12月12日)



オマエは太田将宏の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりましたと書いたけれど、重要な2つのことでオマエは間違いを犯している。



その重大な 2つの間違いとは、いったい何ですか?


まず、オマエは“著作”と書いているけれど、オマエの書いたものは“下書き”なのだよ!。。。 作品というには程遠い。。。 「ヘンリー・パーセル」についての文章を見れば一目瞭然なのだよ!


やっぱり、日本語が理解できる人のために解り易く できるだけ日本語で書くべきですか?


当たり前だろ! 普通のネット市民の皆様が読むようには書かれてない! 英語の単語がやたらに散りばまられて、しかも、似非ドイツ語や、似非ラテン語までが注釈なしに散りばめられている。。。 極めて読みづらい。。。 改行がなく、やたらに長い持ってまわった言い回しになっている。。。 オマエの文章を見ると読む気がしなくなるのだよ!


。。。で、2番目の重大な間違いとは。。。?


だから、すでに言ったように、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に文句を言っている! 悪いのは 「ボイジャー」の社長じゃなく、オマエの未熟な“下書き”なのだよ!  「ボイジャー」の社長は当然のことをしたまでだよ! オマエの“下書き”はネット市民の皆様に公開されるには 未熟で未完成なのだよ!


それは、デンマンさんの個人的な意見ですよ!


僕の個人的な判断じゃなくて、現に 「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんが掲載を拒否したのだよ! 当然のことだよ! しかも、止せばいいのに、僕に対する抗議文までネットで公開している!



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』



つまり、オマエは、文章の中だけじゃなくて、どこへ行っても人間関係を破綻に導いているのだよ!



要するに、オイラは反省が足りないので家族関係も破綻していると言いたいのですか?


その通りだよ! オマエは「(私の家内は)ソクラテスの奥方に近い人柄の女ではないか、と私は、密かに推察している次第である」と書いている。 しかも、「姦しいという字には、女が三つも入っているよ、と言って早々とひきあげたが、私は、良い父親であろうか。 家内を含めて、そうした女三人に囲まれて過ごしている」とも書いている。。。 つまり、うるさい女3人に囲まれて騒々しい人生を送っているという被害妄想に陥っているのだよ!


そうでしょうか?


当たり前だろう! それが理解できないので、オマエは女性系家庭で孤立してしまうのだよ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。


長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。


その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。



(kierke02.jpg)


Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。


私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。


ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。


S.D.G


コーダ(蛇足):


私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。


S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者


S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。


F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月


『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)



デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?



あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?


覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!


とにかく、オマエは性格的に人間関係をうまくやってゆくことができないのだよ。


そのように決め付けないでください。。。


とにかく、これからは長女と次女と心優しい奥さんの言う事に素直に耳を傾けて、反省しながら、仲良く暮らすことだよ!



(foolw.gif)



 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-12-06 04:03 | 太田将宏批判

女3人で姦しい (PART 2)




 


女3人で姦しい (PART 2)



【レンゲの独り言】



(manila07.gif)


ですってぇ~。。。


あなたも信頼の置けない 怪しげなサイトにお金を払ってまで 掲載を依頼しないでくださいね。


信頼が置ける安全で 無料で掲載を引き受けるサイトがたくさんあります。


ところで、デンマンさんは太田さんのことを取り上げて かなり辛辣な批判を浴びせています。


そういうわけで、太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』


デンマン注:太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトも消滅してしまいました!


 


デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。


『嘘を書く日記』


 


太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。


でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。


あなたは、どう思いますか?


とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。


太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。


中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。


また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。


スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、


相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って


読者に登録してしまったりするものですわァ。


どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。


悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと


てぐすね引いて待っているのですから。。。


悪徳サイトを利用して、


メールアドレスで登録したりすると、


あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。


あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには


騙されないと思い込んでいるでしょう?


でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。


とにかく気をつけてくださいね。


次回も、さらに面白い話題が続きます。


あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。


では。。。



(hand.gif)


あなたが絶対、


見たいと思っていた


面白くて実にためになるリンク



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』


■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』


■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』


■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』


■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


■ 『ちょっと心にぐっと来る動物物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
(godiva05.jpg)


■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』



(yuri02.jpg)


■ 『相変わらず馬鹿か?』


■ 『馬鹿やめたのね?』


■ 『馬鹿やめて久しぶり』


■ 『馬鹿やって人気?』


■ 『悪事千里を走る』


■ 『悪縁を断つ』


■ 『失意の太田将宏』



(hooker08.gif)


■ 『悪縁を切れ!』


■ 『心の平穏』


■ 『レモンと孤独な老人』


■ 『乙女の祈りと老人』


■ 『ピアノとお座敷老人』


■ 『孤独で寂しい太田将宏』



(yuri03.jpg)


■ 『クラシックを愛すれど』


■ 『女性を愛せない老人ボケ』


■ 『ボダとキレた老人』


■ 『母という病』


■ 『日本人は嘘つき』



(satomi02.jpg)


■ 『マジでピッタリ!』


■ 『成りすまし老人』


■ 『バカな大人にならない』


■ 『成りすまし老人の告白』


■ 『だまそうとする老人』


■ 『バカの壁の増設』


■ 『ウソの雪ダルマ』


■ 『知らずの自分史』


■ 『新渡戸稲造と太田将宏』


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■ 『日本語と太田将宏』


■ 『坊主の袈裟と太田将宏』



(hokusai08.jpg)


■ 『葛飾北斎と太田将宏』


■ 『女の性的飢餓感』


■ 『敵に塩を送る』


■ 『虚構とウソ』


■ 『手紙と絶交』


■ 『短気は損気』


■ 『不思議な日本語』


■ 『乙女の祈りだわ』


■ 『自作自演じゃないよ』


■ 『マリリンdeアイドル』


■ 『マリリンに誘われて』


■ 『かい人21面相事件』


■ 『悪名と名声』


■ 『嘘を書く日記』


■ 『増長慢』


■ 『自然に耳を傾ける』


■ 『老人極楽クラブ』


■ 『伯母と叔母』


■ 『民主主義とロックンロール』


■ 『後奏曲集@危険』



(juneswim.jpg)



『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



(byebye.gif)


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by denman705 | 2017-12-06 04:01 | 太田将宏批判

後奏曲集@危険 (PART 1)




後奏曲集@危険 (PART 1)




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デンマンさん。。。、どういうわけで“後奏曲集@危険”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?



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オマエと“後奏曲集@危険”について語り合いたくなったのだよ。


でも、それってぇ どういう意味なのですか?


読んで字のごとくだよ。。。 つまり、オマエが投稿した“後奏曲集”が危険というレッテルを貼られて 見られないようになっているのだよ!


マジっすかァ~。。。?


僕はオマエを呼び出してまで悪い冗談を飛ばすような暇はないのだよ。。。 とりあえず、オマエが“後奏曲集”として投稿した中の「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」に関する記事を見て欲しいのだよ!



1.12 Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)


種々、数々あるミサ曲を、いろいろな演奏で聴くときに、私が、習慣的に、注意する箇所がいつの間にか出来てしまった。その一つは<Credo>のなかの、Et incarnatus est、の部分である。これは、もしかすると、吉田秀和のW.A. Mozartの<<Messe in c-moll>>(K. 427)とL.v. Beethovenの<<Missa Solemnis>>(in D-dur, Op. 123)の該当部分を比較した文章を、いつか、どこかで、読んだとき以来のことかも知れない。まったく、Mozartの作品では、Raffaelloの絵画のような色彩のなかで、甘美な、sinfully sweet(草子地:この言葉は日本語では表現し難い。これは、実は、chocolateのcommercialから借用したのである。しかし、適材適所でここに収めたのは、かく言う私である。)とでも言ったらよいような旋律がソプラノで木管と共に唱れていく。私のLPでは、Maria Staderがそれを唱っているのであるが、彼女の天真爛漫な声が(草子地:多少、あの映画<オーケストラの少女>のような感じがしないでもないが)、楽園の世界に響き渡っているようだ。私は、この曲は教会音楽としては相応しくない、という見方にくみする方ではあるが、と言って、この曲の繊細さ、優美さを否定するつもりは全くない。
ところで、J.S. Bachの場合は、如何であろうか。彼の<<Messe in h-moll>>(BWV 232)では、Jesusの受肉である誕生を受難の始り、として表出しているのは確実である、と思うのであるが、どうであろうか。(草子地:以下の記述は、N. Harnoncourtの演奏によるLPに準拠している。J. RifkinによるCDでは、様子が異なっているが、このpostludeの大筋には、さしての影響はないので、このまま続ける)。
ここで、Bachは、少し奇妙なことをしているのだ。Et in unum Dominumの部分で、既にEt homo factus estまで曲を進めておきながら、後戻りをさせるように、Et incarnatus estを改めて始めているのである。そして、曲はCrucifixusのpassacagliaに続けられていくのである。これで、説明は、充分であろうか。これ以上、この例をもとにして更に深入りをすると、深読みのしすぎ、ととられる懸念が出てくる。私が言おうとしていることは、Messeのtextの繰り返しの一つ一つを取り出せば、こじつけとも言われようが、その繰り返し(複数)のあり方の全体を見ると、作曲者Bachのニケヤ信条の理解が透けて見えてくる、ということである。その驚異的な筆跡に、彼には、現代に於ける神学すらを踏まえた新、旧約の理解すらもあるふしを私は感じるのである。
二つだけ残されたBachの受難曲を聴くときには、Bachの音楽を通して、福音書の解釈に耳を傾けているのだ、と言っても過言ではないであろう。その一点に於いて、Bachは、W.A. Mozartはおろか、C. Monteverdiとすら異なった次元に存在している。要するに、あたかも神の領域を見てきたような、或いは、神がかった、或いは、神を味方に引き入れたような嘘を、Bachは一つも言ってはいない、ということである。超越の世界と、人間の世界を峻別し、謎は謎として自らは沈黙する。そして、そのうえで、自らの新、旧約への共感を唱いつくしているのである。それを検証するのは、無論、容易ではないが、後者の例として、あの有名なPetrusの否認に対する作曲家の明らかな同情(Sym-pathie)がある。あの例外的にmelismatikなEvangelistのRezitativと、それに続くAriaは周知の聴きどころであった。前者の例としては、Jesusが息をひきとったときの沈黙の効果である。常套的、と言ってしまえばそれまでであるが、私は、これ程までに彼我を峻別した沈黙の深さを他には知らない。K. Richterの演奏が、それを証明している。この前後の谷間に沈む静けさは、前の音の消え方、絶妙な間としてのGeneral Pause、そして次の音の立ち上りの姿によって、聴き手自身が息を呑んでいるのを聴き手自身に自覚させないほどの効果をもたらしている。
BachとRichter、そして、総ての演奏者の職人的な、しかし、無私、無心のなさせる奇跡的と言ってもよいほどの業が、眼の前に繰り広げられていたことに、後になって目覚めるのである。常套的、とも書いたが、いや、これは、むしろ、それが正道を行く曲創りであったからこそ、そして、それを徹底して在るがままに演奏したからこそ、この高み、いや、この深みの音楽に達していたのではなかったか。
ところで、Bachには、更に、その先があるのである。<<Misse in h-moll>>に話を戻す。それも、また、あのEt in carnatus estにである。この雰囲気は一体全体何であろう。思いあたるのは<<Aria mit verschiedenen Veranderungen>>(BWV 988)の第15変奏にもあるような雰囲気、とりわけG. Gouldの晩年の演奏に於いて感じられるそれである。と言うことは、これは、Bachの音楽のなかでは、とりわけ例外的でもない、ということになるが、この希薄な空気の中に漂うような音楽に耐えられ、Bachのそうした一面に共感し、考察できるようになるのは、私にとっては、いつになることであろうか。今の私は、そうした音楽に出会うと、耳の方が耐えられずして、いつしか、音楽から逸れてしまうのである(草子地:ここは、神秘的ではあるが、私は、敢えて、それに触れなかった。ドイツ的な合理主義は、究極的には、神秘主義に通じる、という見方があるからである。そんな次元での話ではなかったはずであり、J.S. Bachは、少なくとも、そんなものは乗り越えている、と私は信じている)。ただ言えることは、この息苦しさは、Crusifixusの苦悩、苦痛に拮抗している、ということである。
さて、私がミサ曲の中で気にする箇所は、他にもあるのである。例えば、<Sanctus>と<Benedictus>に続くHosannaの繰り返しの、作曲者の処理の仕方である。我ながら、意地の悪い注目の仕方ではあるが、Bachのこの作品のそれは、とりわけ無様ではないか。その不器用な繰り返しを、それに輪をかけて不器用に演奏しているH. Harnoncourtは、実に、Bachに忠実である。Messeのtextの中では、このBenedictusから戻るOsanna(草子地:これは綴りの間違いではない)が、唯一の繰り返しであるところが、皮肉にも面白い。
S.D.G.
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赤字はデンマンが強調)


27-28ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より



あのさァ~、いつも言うようだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。


それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!



海外からのアクセス@Denman Blog




(wp71201map.png)




(wp71201.png+wp71201b.png)


『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog




134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?



いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。


マジで。。。?


僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。



1.12 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ


(1685 – 1750)



(bach001.jpg)



種々、数々あるミサ曲を、いろいろな演奏で聴くときに、私が、習慣的に、注意する箇所がいつの間にか出来てしまった。


その一つは<クレド - ミサ曲の構成要素>のなかの、五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス;ロ短調、アンダンテ・マエストーソ、3/4拍子) の部分である。


これは、もしかすると、吉田秀和のモーツァルトの<<大ミサ曲 ハ短調>>(K. 427)と



(moza002.jpg)



それと、ベートーヴェンの<<ミサ・ソレムニス>>(in D-dur, Op. 123)の該当部分を比較した文章を、いつか、どこかで、読んだとき以来のことかも知れない。



(op123.jpg)



まったく、モーツァルトの作品では、ラファエロの絵画のような色彩のなかで、甘美な、罪深いほど甘い(草子地: sinfully sweet この言葉は日本語では表現し難い。これは、実は、チョコレートの宣伝文句から借用したのである。しかし、適材適所でここに収めたのは、かく言う私である。)とでも言ったらよいような旋律がソプラノで木管と共に唱れていく。


私のLPでは、マリア・シュターダーがそれを唱っているのであるが、彼女の天真爛漫な声が(草子地:多少、あの映画<オーケストラの少女>のような感じがしないでもないが)、楽園の世界に響き渡っているようだ。
私は、この曲は教会音楽としては相応しくない、という見方にくみする方ではあるが、と言って、この曲の繊細さ、優美さを否定するつもりは全くない。


ところで、バッハの場合は、如何であろうか。
彼の<<ミサ曲 ロ短調>>(BWV 232)では、イエス・キリストの受肉である誕生を受難の始り、として表出しているのは確実である、と思うのであるが、どうであろうか。
(草子地:以下の記述は、ニコラウス・アーノンクールの演奏によるLPに準拠している。
ジョシュア・リフキンによるCDでは、様子が異なっているが、この後奏曲の大筋には、さしての影響はないので、このまま続ける)。


ここで、バッハは、少し奇妙なことをしているのだ。
Et in unum Dominum (And in one Lord) の部分で、既に「天の聖霊はこの世界の上を飛び回って、自分のやろるべきものを探し求める」(Et homo factus est)まで曲を進めておきながら、後戻りをさせるように、パワー(Et incarnatus est)を改めて始めているのである。
そして、曲はCrucifixus(信条)の パッサカリア(17世紀初期にはギターで和音を奏するリトルネッロ:歌の前奏・間奏などの器楽演奏部分)に続けられていくのである。
これで、説明は、充分であろうか。


これ以上、この例をもとにして更に深入りをすると、深読みのしすぎ、ととられる懸念が出てくる。
私が言おうとしていることは、ミサのテキストの繰り返しの一つ一つを取り出せば、こじつけとも言われようが、その繰り返し(複数)のあり方の全体を見ると、作曲者バッハのニケヤ信条の理解が透けて見えてくる、ということである。


その驚異的な筆跡に、彼には、現代に於ける神学すらを踏まえた新、旧約の理解すらもあるふしを私は感じるのである。
二つだけ残されたバッハの受難曲を聴くときには、バッハの音楽を通して、福音書の解釈に耳を傾けているのだ、と言っても過言ではないであろう。
その一点に於いて、バッハは、モーツァルトはおろか、クラウディオ・モンテヴェルディとすら異なった次元に存在している。


要するに、あたかも神の領域を見てきたような、或いは、神がかった、或いは、神を味方に引き入れたような嘘を、バッハは一つも言ってはいない、ということである。
超越の世界と、人間の世界を峻別し、謎は謎として自らは沈黙する。
そして、そのうえで、自らの新、旧約への共感を唱いつくしているのである。
それを検証するのは、無論、容易ではないが、後者の例として、あの有名なシモン・ペトロの否認に対する作曲家の明らかな同情がある。


あの例外的にメリスマ様式のテノールのパート朗唱と、それに続くアリアは周知の聴きどころであった。
前者の例としては、イエス・キリストが息をひきとったときの沈黙の効果である。
常套的、と言ってしまえばそれまでであるが、私は、これ程までに彼我を峻別した沈黙の深さを他には知らない。


カール・リヒターの演奏が、それを証明している。
この前後の谷間に沈む静けさは、前の音の消え方、絶妙な間としての全部の楽器が休止、そして次の音の立ち上りの姿によって、聴き手自身が息を呑んでいるのを聴き手自身に自覚させないほどの効果をもたらしている。
バッハとカール・リヒター、そして、総ての演奏者の職人的な、しかし、無私、無心のなさせる奇跡的と言ってもよいほどの業が、眼の前に繰り広げられていたことに、後になって目覚めるのである。
常套的、とも書いたが、いや、これは、むしろ、それが正道を行く曲創りであったからこそ、そして、それを徹底して在るがままに演奏したからこそ、この高み、いや、この深みの音楽に達していたのではなかったか。


ところで、バッハには、更に、その先があるのである。
<<ミサ曲 ロ短調>>に話を戻す。
それも、また、あのミサ歌詞にである。


この雰囲気は一体全体何であろう。
思いあたるのは<<ゴルトベルク変奏曲>>(BWV 988)の第15変奏にもあるような雰囲気、とりわけグレン・グールドの晩年の演奏に於いて感じられるそれである。
と言うことは、これは、バッハの音楽のなかでは、とりわけ例外的でもない、ということになるが、この希薄な空気の中に漂うような音楽に耐えられ、バッハのそうした一面に共感し、考察できるようになるのは、私にとっては、いつになることであろうか。


今の私は、そうした音楽に出会うと、耳の方が耐えられずして、いつしか、音楽から逸れてしまうのである
(草子地:ここは、神秘的ではあるが、私は、敢えて、それに触れなかった。ドイツ的な合理主義は、究極的には、神秘主義に通じる、という見方があるからである。そんな次元での話ではなかったはずであり、バッハは、少なくとも、そんなものは乗り越えている、と私は信じている)。
ただ言えることは、この息苦しさは、Crusifixus(信条)の苦悩、苦痛に拮抗している、ということである。


さて、私がミサ曲の中で気にする箇所は、他にもあるのである。
例えば、<サンクトゥス>と<ベネディクトゥス>に続くホサナ《神を賛美する叫び[言葉]》の繰り返しの、作曲者の処理の仕方である。
我ながら、意地の悪い注目の仕方ではあるが、バッハのこの作品のそれは、とりわけ無様ではないか。
その不器用な繰り返しを、それに輪をかけて不器用に演奏しているニコラウス・アーノンクールは、実に、バッハに忠実である。


ミサのテキストの中では、このベネディクトゥスから戻るオザンナ(草子地:これは綴りの間違いではない)が、唯一の繰り返しであるところが、皮肉にも面白い。


ただ神にのみ栄光を!


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赤字はデンマンが強調)


27-28ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より



。。。で、上の記事が危険に晒されているということですか?



そうだよ。。。


でも、危険ってぇ、具体的にはどういうことなのですか?


まず、次の検索結果を見て欲しい。



(gog71129a.png)



『拡大する』


『現時点での検索結果』



つまり、オマエの上の記事が出てくるサイトを見つけようとして「間奏曲集―主題なき変奏-作品 2 太田将宏」と入れて検索したのだよ。。。



あれっ。。。 水色の枠で囲んであるのはデンマンさんが投稿した記事ですねぇ~?


そうなのだよ。。。 僕はこれまでに オマエの『後奏曲集』の中からいくつかの作品を引用して記事を書いたのだよ。。。 たまたま赤枠で囲んだ箇所が目に付いた。。。 これは確かにオマエが書いた記事なのだよ! その証拠に引用した文中の赤字で書いた箇所が出ている!


。。。で、リンクをクリックするとオイラが投稿した記事が出てくるのですか?


まず次のページが出てくるのだよ!



(pap71129a.png)



『拡大する』


『実際のページ』



これはオイラがアップロードした『後奏曲集』を表示しようとしている画面ですねぇ~。。。



そうなのだよ。。。 ところが30秒ほど待っても『後奏曲集』は表示されないで、次の画面が出てくる。



(pap71129b.png)



『拡大する』


『実際のページ』



あれっ。。。 オイラの『後奏曲集』をアップロードしたサイトは何者かがマルウェアかトロイの木馬を忍び込ませて、あくどい事をしようとしたのですか?



まず間違いなくマルウェアが忍び込んでサイトを台無しにしてしまったのだよ!



マルウェア



(malw01.jpg)



マルウェア (malware) とは、不正かつ有害に動作させる意図で作成された悪意のあるソフトウェアや悪質なコードの総称で、コンピュータウイルスやワームなどがある。


悪意のコード(malicious code)、悪意のソフトウェア(malicious software)、悪意のある不正ソフトウェア、有害なソフトウェア、不正プログラムとも呼ばれる。


マルウェアの行う活動としてはデータの破壊やデータの盗難などがあるが、こうした「悪意のある」行動をするソフトのみならず、ユーザの望まない広告を勝手に出すアドウェアのような「迷惑ソフト」の中で悪質なものもマルウェアの範疇に含める場合がある。


マルウェア(malware) は、「悪意のある」という意味の英語「malicious(マリシャス)」と「software」を組み合わせて創られたかばん語である。


類義語としてクライムウェアがあり、これはマルウェアの中で特に犯罪(crime)に使われるものを指すとするものもあるが、必ずしもこれを要件としないものもあり、マルウェアとの関係は判然としない。



種類


1) ワームはウイルス同様自己増殖するが、ホストプログラムを持たず、単体で存在するプログラムの事を指す。


2) バックドアとは外部からコンピューターを操るために作られたコンピューターへの不正な侵入経路の事でRAT(Remote Administration Tool)とも呼ばれる。
バックドアをしかけるマルウェアをバックドア型と呼ぶ。


3) トロイの木馬は一見無害なファイルやプログラムに偽装した上でコンピューターに侵入したあと悪意のある振る舞いをするものを指すことが多いが、偽装を行わずにOS等の脆弱性を悪用して勝手にインストールされてしまうもの(ドライブバイダウンロード)もトロイの木馬に含める場合がある。
狭義のウイルスと違い自己増殖機能は持たない。
またトロイの木馬の定義として単体で存在し宿主を必要としないことを要件に加えるものもあるが、これを要件としない場合もある。
トロイの木馬の定義として、コンピューター内部に侵入したあと攻撃者による外部からの命令で悪意のある振る舞いをする事やバックドア型である事を要件にする場合もある。


4) スパイウェアは情報収集を主な目的とし、コンピューターの内部情報を外部に勝手に送信するソフトウェアで、ユーザーが気づかないうちにパソコンにインストールしているパターンが多い。
IPAとJNSAの定義によればスパイウェアとは「利用者や管理者の意図に反してインストールされ、利用者の個人情報やアクセス履歴などの情報を収集するプログラム等」のことである。
スパイウェアはマルウェアの一種とみなすことが多いが、シマンテックはスパイウェアをマルウェアに含めていない(クライムウェアには含めている)。




出典: 「マルウェア」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



オイラはどうしたらよいのでしょうか?



あのさァ~、オマエが掲載を依頼した paperzz.com のサイトは、すべてが駄目になっているようだよ!



(pap71201a.png)



『拡大する』


『実際のページ』



オイラは、マジで どうしたらよいのでしょうか?



あのさァ~、お金を払ってまでパブリッシング・サイトに掲載を依頼する必要はないのだよ! ネット市民の記事を掲載している 無料で信頼のおける安全なサイトがたくさんあるのだから。。。!


例えば。。。?


たとえば、僕の Denman Blog が掲載されている wordpress.com だよ。。。 オマエもブログを始めて、記事を投稿すればよいのだよ!



(foolw.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-12-01 05:25 | 太田将宏批判

後奏曲集@危険 (PART 2)



 


後奏曲集@危険 (PART 2)



【レンゲの独り言】



(manila07.gif)


ですってぇ~。。。


あなたも信頼の置けない 怪しげなサイトにお金を払ってまで 掲載を依頼しないでくださいね。


信頼が置ける安全で 無料で掲載を引き受けるサイトがたくさんあります。


ところで、デンマンさんは太田さんのことを取り上げて かなり辛辣な批判を浴びせています。


そういうわけで、太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』


 


デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。


『嘘を書く日記』


 


太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。


でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。


あなたは、どう思いますか?


とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。


太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。


中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。


また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。


スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、


相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って


読者に登録してしまったりするものですわァ。


どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。


悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと


てぐすね引いて待っているのですから。。。


悪徳サイトを利用して、


メールアドレスで登録したりすると、


あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。


あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには


騙されないと思い込んでいるでしょう?


でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。


とにかく気をつけてくださいね。


次回も、さらに面白い話題が続きます。


あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。


では。。。



(hand.gif)


あなたが絶対、


見たいと思っていた


面白くて実にためになるリンク



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』


■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』


■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』


■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


■ 『ちょっと心にぐっと来る動物物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
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■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』



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■ 『相変わらず馬鹿か?』


■ 『馬鹿やめたのね?』


■ 『馬鹿やめて久しぶり』


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■ 『悪事千里を走る』


■ 『悪縁を断つ』


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■ 『レモンと孤独な老人』


■ 『乙女の祈りと老人』


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■ 『女の性的飢餓感』


■ 『敵に塩を送る』


■ 『虚構とウソ』


■ 『手紙と絶交』


■ 『短気は損気』


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■ 『乙女の祈りだわ』


■ 『自作自演じゃないよ』


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■ 『かい人21面相事件』


■ 『悪名と名声』


■ 『嘘を書く日記』


■ 『増長慢』


■ 『自然に耳を傾ける』


■ 『老人極楽クラブ』


■ 『伯母と叔母』


■ 『民主主義とロックンロール』



(juneswim.jpg)



『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



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by denman705 | 2017-12-01 05:22 | 太田将宏批判


 


民主主義とロックンロール (PART 1)


 



(minshu02.jpg)



(rocker01.jpg)



(ireba03.jpg)



(laugh16.gif)




(ohta03.png)


デンマンさん。。。、どういうわけで“民主主義とロックンロール”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?



(kato3.gif)


オマエと“民主主義とロックンロール”について語り合いたくなったのだよ。


どちらもオイラの嫌いなものですよ。。。


でも、オマエは“民主主義とロックンロール”について書いてたのだよ。


まさかァ~。。。!?


オマエは僕の言う事が信じられないのォ~?


だってぇ~、オイラは民主主義もロックンロールも嫌いなのだすよ。。。 だから、その事について書いてるはずがありません。


だったら、オマエが書いた文章をここに書き出すから読んでごらんよ。



1.8 Richard Wagner (1813 – 1880)


R. Wagnerの<<Tannhäuser>>全曲を聴いたのは、考えてみれば、二十年ぶりだった。彼の作品のなかでは、このドラマに一番,正悪(或は、聖俗)二元論が全面に出ている、と私は思う。そうした二元論も、清純な女性による救済も、馬鹿馬鹿しくなる程にprimitifなromantismeであるが、それも、遡れば、C.M.v. Weberの<<Der Freischütz>>、つまり、ドイツ民族楽派の狼煙に初源を見つけることができる。ドイツ語によるオペラの悲劇と喜劇の未分化、ということについて言えば、そもそも、W.A. Mozartの<<Die Zauberflöte>>からして、その通りであったのである。
どのような本を読んだところで、また、どのような音楽を聴いたところで、その人の人生とはいかないまでも、生活に何らの影響も関係もないのではないか、といった類の人々もいるものだ、と思うようになってきた(草子地:そうは思っていなかった頃の私は、喜劇的に純情であった、ともいえる)。そうした人にとっては、音楽とは、単に、たまたまあいた一、二時間をうめるための余興にしかすぎない。その後は、何も残らない。それの何処が悪い?悪くはないが,うそぶくな、と私の心は呟く。
私も同類だ、と思う時と思わない時がある。思わない時、というのは、文章や音楽作品による、私に残された傷痕を省みた時であるが、自分のことなどを書いてもはじまらない。
全くもって、この人生を覆う巨大な無意味さに対して、音楽でもしなければ、短いようで長たらしい時間の間がもたないではないか。そういう時には、Wagnerの楽劇が絶好なのである。誰も、古ゲルマンの神々を、もはや、信仰の対象とはしないように、彼の思想なるものを自己のそれの依りどころとはしてはいないからである。
私は、第一級の演劇の台本はオペラには向かない、と思う。それにしても、台本だけを取りだして言えば、Wagenrの作品の場合は、素人の水準ではないか。私には、そこに、支離滅裂な筋書きと幼稚な思想まがいしか見ることができない。F. NietscheからT. Mannに至るまで、Wagnerの思想に関する様々な論評があるが、それらのどれを読んでも、私には、彼の思想の現代に於ける普遍的な有効性を見い出せないのである(草子地:ある意味では、これが一番危険でもある)。
それにも拘らず、我々が、現在、彼の作品を聴くのは、その音楽に於いての交響的音響の適用に、今なお、魅力を感じるからではないであろうか。全く、彼の偽対位法の効果は他の追従を許さない。そこでは、無茶苦茶な筋書きが音楽の文脈で抽象化されて、音楽の本流、支流と共に頂点を創る。それこそ、それは、Wagner現象、とでも呼ぶべき一つの現象であって、その音楽史上の有効性を除いたのなら、彼は、大言壮語するだけの矮小化したドイツ音楽の作曲家にしかすぎなかったことになるであろう。
言い表す語彙、つまり、言語の粗い網目によっては音楽を表現する手段がない、という事実は、何も、逆に、音楽は何ものをも表現しない、ということを意味し得ない。音楽は、音楽の表現するものを表現している(草子地:私は、ここで、音楽はWagnerの楽劇の荒唐無稽な筋書までを表現している、などとは書いてはいない)。彼のLeitmotivは、聴き手の記憶に頼る補助的な手段でもあるが、一方、その交響的な響きが筋書きのTextと、ある地点で出会う時、音楽が筋書きを説明するなどということではなく、抽象化された筋書きが音楽を支えている、という効果を感得するのである。そうした音楽に於ける経過には、もはや、Recitativは使用できないことは明白であろう。
20
Recitativ、これは、Bachの受難曲に於けるような理想的な適応例があったにも拘らず、ことオペラになると、Singspielの台詞からSprechstimmeに至るまで、特にドイツ語による作品では、解決の難しい問題であるらしい。Wagner流の解決を先送りした和声に乗せた旋律による説明部分も、長すぎる人生でもない限り、付き合うのに困難を覚えるのは、私だけではあるまい。
処女を犠牲に供する事は、いにしえの社会に於いて、洋の東西を問わなかった。ドイツに限らず、ヨーロッパの処女崇拝は、原始までに遡るのであろうか。そうであったとすると、キリスト教の彼の地に於ける土着とは、その表層にすぎなかった事になろう。新約に於いて、Lukasのみに見る処女懐妊の記述は、最も古代ヨーロッパ的であることは、その宛先によっても明白であろう。
それとも、処女性を殆ど問題にしなくなった現代人は、古代人の知恵を失いつつあるのであろうか。
蛇足(コーダ):
よくある平凡な話であるが、我が家の次女が私を批判して言った。人それぞれなんだから。Bachを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの、とのことである。家内も娘に同調して、自分の好みを人に押し付けるのは良くない、だと。だから、私は民主主義が嫌いなのである。頭の悪い、汗臭くて、むさくて、未熟な若者たちが、がなりたてる雑音と、J.S. Bachの清澄な音楽を同列にしているのが大衆社会化状況である。どれだけ彼らが、自ら知らずして、先人の業績、例えば、J.P. Rameauの<和声楽>に負っているか、を考えてみるがよい。
私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない。しかし、私の思うことを主観的に愚妻や豚女に話してもしかたがないので、Bachを聴くような人が、この前、downtownで暴動があった時、lootingをしていたかい、と聞き返しておいた。ロックならともかく、例えば、Bachの音楽が入っているCDなどが略奪された、などという話は、誰も聞いたことがないであろうからである。
誰にでも等しい権利があるのならば、保護は期待しないほうがいい。義務と責任も科するべきである。甘ったれた、いいとこ取りはやめたほうがいい。




19-20ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より



オイラが上の文章を掲載したサイトは消滅しているのに、デンマンさんは どのように上の文章をゲットしたのですか?



サイトが消滅する前に、僕はオマエのサイトを丸ごと僕のフラッシュ・メモリーにダウンロードしておいたのだよ。


つまり、オイラを徹底的に批判するために、前もってオイラの作品を保存しておいたのですねぇ~。。。


その通りだよ。。。


デンマンさんは、かなり執念深いのですねぇ~。。。 オイラが 気まぐれに匿名でデンマンさんのブログにコメントを書き込んだことが それほど頭にきたのですか?


それもあるけれど、オマエが他の5人に成りすまして 見え見えの自作自演で 僕を非難したことが 僕の気持ちを逆なでしたのだよ。。。


それで、こうして限(きり)もなく オイラをネットで晒しているのですか?


いや。。。 オマエを晒しているんじゃないのだよ。。。 オマエがせっかくクラシックについて拙い文章を書いた。。。 オマエはその“下書き”を出版しようとして 多くの出版社に原稿を見てもらった。。。でも、結局どの出版社からも拒否されたので、可哀想になったから、こうしてオマエの“下書き”を取り上げて オマエと語り合おうと思ったわけだよ。


つまり、デンマンさんはオイラを応援しているつもりなのですか?


その通りだよ。。。 だけど、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。


デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。


それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!


 


海外からのアクセス@Denman Blog


 



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『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog


 



133ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?



いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。


マジで。。。?


僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。



1.8 リヒャルト・ワーグナー (1813 – 1880)



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ワーグナーの<<タンホイザー>>全曲を聴いたのは、考えてみれば、二十年ぶりだった。


彼の作品のなかでは、このドラマに一番,正悪(或は、聖俗)二元論が全面に出ている、と私は思う。



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そうした二元論も、清純な女性による救済も、馬鹿馬鹿しくなる程にアカデミックな修練とは無縁なロマン主義であるが、それも、遡れば、カール・マリア・フォン・ウェーバーの<<魔弾の射手>>、つまり、ドイツ民族楽派の狼煙に初源を見つけることができる。
ドイツ語によるオペラの悲劇と喜劇の未分化、ということについて言えば、そもそも、モーツァルトの<<魔笛>>からして、その通りであったのである。


どのような本を読んだところで、また、どのような音楽を聴いたところで、その人の人生とはいかないまでも、生活に何らの影響も関係もないのではないか、といった類の人々もいるものだ、と思うようになってきた(草子地:そうは思っていなかった頃の私は、喜劇的に純情であった、ともいえる)。
そうした人にとっては、音楽とは、単に、たまたまあいた一、二時間をうめるための余興にしかすぎない。
その後は、何も残らない。
それの何処が悪い?悪くはないが,うそぶくな、と私の心は呟く。


私も同類だ、と思う時と思わない時がある。
思わない時、というのは、文章や音楽作品による、私に残された傷痕を省みた時であるが、自分のことなどを書いてもはじまらない。
全くもって、この人生を覆う巨大な無意味さに対して、音楽でもしなければ、短いようで長たらしい時間の間がもたないではないか。
そういう時には、ワーグナーの楽劇が絶好なのである。


誰も、古ゲルマンの神々を、もはや、信仰の対象とはしないように、彼の思想なるものを自己のそれの依りどころとはしてはいないからである。
私は、第一級の演劇の台本はオペラには向かない、と思う。


それにしても、台本だけを取りだして言えば、ワーグナーの作品の場合は、素人の水準ではないか。
私には、そこに、支離滅裂な筋書きと幼稚な思想まがいしか見ることができない。


 



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ニーチェからトーマス・マンに至るまで、ワーグナーの思想に関する様々な論評があるが、それらのどれを読んでも、私には、彼の思想の現代に於ける普遍的な有効性を見い出せないのである。
(草子地:ある意味では、これが一番危険でもある)


それにも拘らず、我々が、現在、彼の作品を聴くのは、その音楽に於いての交響的音響の適用に、今なお、魅力を感じるからではないであろうか。
全く、彼の偽対位法の効果は他の追従を許さない。
そこでは、無茶苦茶な筋書きが音楽の文脈で抽象化されて、音楽の本流、支流と共に頂点を創る。


それこそ、それは、ワーグナー現象、とでも呼ぶべき一つの現象であって、その音楽史上の有効性を除いたのなら、彼は、大言壮語するだけの矮小化したドイツ音楽の作曲家にしかすぎなかったことになるであろう。
言い表す語彙、つまり、言語の粗い網目によっては音楽を表現する手段がない、という事実は、何も、逆に、音楽は何ものをも表現しない、ということを意味し得ない。
音楽は、音楽の表現するものを表現している(草子地:私は、ここで、音楽はワーグナーの楽劇の荒唐無稽な筋書までを表現している、などとは書いてはいない)。


彼の「繰り返し使われる短い主題や動機」は、聴き手の記憶に頼る補助的な手段でもあるが、一方、その交響的な響きが筋書きのテキストと、ある地点で出会う時、音楽が筋書きを説明するなどということではなく、抽象化された筋書きが音楽を支えている、という効果を感得するのである。
そうした音楽に於ける経過には、もはや、「概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる叙唱や朗唱」は使用できないことは明白であろう。


「概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる叙唱や朗唱」、これは、バッハの受難曲に於けるような理想的な適応例があったにも拘らず、ことオペラになると、「ドイツ語による歌芝居」の台詞から「表現主義ボーカルテクニック」に至るまで、特にドイツ語による作品では、解決の難しい問題であるらしい。
ワーグナー流の解決を先送りした和声に乗せた旋律による説明部分も、長すぎる人生でもない限り、付き合うのに困難を覚えるのは、私だけではあるまい。
処女を犠牲に供する事は、いにしえの社会に於いて、洋の東西を問わなかった。


ドイツに限らず、ヨーロッパの処女崇拝は、原始までに遡るのであろうか。
そうであったとすると、キリスト教の彼の地に於ける土着とは、その表層にすぎなかった事になろう。
新約に於いて、ルカのみに見る処女懐妊の記述は、最も古代ヨーロッパ的であることは、その宛先によっても明白であろう。



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それとも、処女性を殆ど問題にしなくなった現代人は、古代人の知恵を失いつつあるのであろうか。


 


蛇足(コーダ):



よくある平凡な話であるが、我が家の次女が私を批判して言った。


人それぞれなんだから、バッハを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの」、とのことである。


家内も娘に同調して、「自分の好みを人に押し付けるのは良くない」、だと。


だから、私は民主主義が嫌いなのである。
頭の悪い、汗臭くて、むさくて、未熟な若者たちが、がなりたてる雑音と、バッハの清澄な音楽を同列にしているのが大衆社会化状況である。
どれだけ彼らが、自ら知らずして、先人の業績、例えば、ジャン=フィリップ・ラモーの<和声楽>に負っているか、を考えてみるがよい。


私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない。
しかし、私の思うことを主観的に愚妻や豚女に話してもしかたがないので、バッハを聴くような人が、この前、ダウンタウンで暴動があった時、略奪をしていたかい、と聞き返しておいた。
ロックならともかく、例えば、バッハの音楽が入っているCDなどが略奪された、などという話は、誰も聞いたことがないであろうからである。


誰にでも等しい権利があるのならば、保護は期待しないほうがいい。
義務と責任も科するべきである。
甘ったれた、いいとこ取りはやめたほうがいい。




赤字はデンマンが強調)


19-20ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より



ところで、オマエが上の文章をPDF形式でネットで公開したようだけれど、上のリンクをクリックしたら、もう削除されてないよ。。。 オマエ、また管理人に抗議してシカトされたのだろう!?



判りますか?


あのさァ~、オマエは以前にも「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんに掲載を断られてしまった。 それなのに、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に次のように文句を言っている! 



太田将宏著作集 (E-Book Mode)



告発状以下の筆者自身の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりました。


その一切の経過につき、筆者の告発文書、<<ボイジャー、ロマンサーへの抗議録>>を
上の告発状をclickして御参照願います。




Ⅰ あれかこれか


哲学 (実践知性批判、Sartreを中心に)、


神学(純粋意識批判、Kierkegaardを中心に)




Ⅱ 愛と生命の摂理


文学(ドストエフスキーを中心に)




Ⅲ 前奏曲集 第一集


音楽(あるアマチュアの覚書、(批評の批評 ⅰ)




Ⅳ 前奏曲集 第二集


音楽(私はアマチュアである、(批評の批評 ⅱ)




Ⅴ 間奏曲集


音楽(主題なき変奏、(言葉と音楽 ⅰ)




Ⅵ 後奏曲集


音楽(後書きばかり、(言葉と音楽 ⅱ)




Ⅶ 瞬間


書簡集




『EBOOK MODE』より


『失意の太田将宏』にも掲載
(2015年12月12日)



オマエは太田将宏の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりましたと書いたけれど、重要な2つのことでオマエは間違いを犯している。



その重大な 2つの間違いとは、いったい何ですか?


まず、オマエは“著作”と書いているけれど、オマエの書いたものは“下書き”なのだよ!。。。 作品というには程遠い。。。 ヒルデガルト・フォン・ビンゲンについての文章を見れば一目瞭然なのだよ!


やっぱり、日本語が理解できる人のために解り易く できるだけ日本語で書くべきですか?


当たり前だろ! 要するに、オマエは“現実感を喪失”しているのだよ。。。 ネット市民の皆様が読むようには書かれてない! 英語の単語がやたらに散りばまられて、しかも、似非ドイツ語や、似非ラテン語までが注釈なしに散りばめられている。。。 極めて読みづらい。。。 改行がなく、やたらに長い持ってまわった言い回しになっている。。。 オマエの文章を見ると読む気がしなくなるのだよ!


デンマンさんの“バカ野郎文章”の方が、もっと酷(ひど)いと思うのですけれど。。。で、2番目の重大な間違いとは。。。?


だから、すでに言ったように、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に文句を言っている! 悪いのは 「ボイジャー」の社長じゃなく、オマエの未熟な“下書き”なのだよ!  「ボイジャー」の社長は当然のことをしたまでだよ! オマエの“下書き”はネット市民の皆様に公開されるには 未熟で未完成なのだよ!


それは、デンマンさんの個人的な意見ですよ!


僕の個人的な判断じゃなくて、現に 「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんが掲載を拒否したのだよ! 当然のことだよ! しかも、止せばいいのに、僕に対する抗議文までネットで公開している!



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』



つまり、オマエは、文章の中だけじゃなくて、どこへ行っても人間関係を破綻に導いているのだよ!



要するに、オイラは反省が足りないので家族関係も破綻していると言いたいのですか?


その通りだよ! オマエは「私は、誰にも、何ものをも押し付けたりしてはいない」と書いているけれど、次女に対してバッハを聴くように押し付けたじゃないか! だから、次女がオマエに対して「人それぞれなんだから、バッハを聴かないでロックを好きな人は、それはそれでいいの」と抗議したのだよ! 「ボイジャー」の社長や僕に対するオマエの理不尽な抗議と比べれば、次女の抗議こそ 正当な抗議なのだよ!


そうでしょうか?


当たり前だろう! それが理解できないので、オマエは女性系家庭で孤立してしまうのだよ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。


長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。


その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。



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Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。


私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。


ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。


S.D.G


コーダ(蛇足):


私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。


S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者


S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。


F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月


『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)



デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?



あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?


覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!


とにかく、オマエは性格的に人間関係をうまくやってゆくことができないのだよ。


そのように決め付けないでください。。。


とにかく、これからは長女と次女と心優しい奥さんの言う事に素直に耳を傾けて、反省しながら、仲良く暮らすことだよ!



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 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-11-29 04:44 | 太田将宏批判


 


民主主義とロックンロール (PART 2)



【レンゲの独り言】



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ですってぇ~。。。


これまでに、デンマンさんは太田さんのことで いろいろと記事を書いてますから、


太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』


 


すると、デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。


『嘘を書く日記』


 


太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。


でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。


あなたは、どう思いますか?


とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。


太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。


中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。


また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。


スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、


相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って


読者に登録してしまったりするものですわァ。


どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。


悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと


てぐすね引いて待っているのですから。。。


悪徳サイトを利用して、


メールアドレスで登録したりすると、


あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。


あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには


騙されないと思い込んでいるでしょう?


でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。


とにかく気をつけてくださいね。


次回も、さらに面白い話題が続きます。


あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。


では。。。



(hand.gif)


あなたが絶対、


見たいと思っていた


面白くて実にためになるリンク



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』


■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』


■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』


■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


■ 『ちょっと心にぐっと来る動物物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
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■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』



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■ 『相変わらず馬鹿か?』


■ 『馬鹿やめたのね?』


■ 『馬鹿やめて久しぶり』


■ 『馬鹿やって人気?』


■ 『悪事千里を走る』


■ 『悪縁を断つ』


■ 『失意の太田将宏』



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■ 『悪縁を切れ!』


■ 『心の平穏』


■ 『レモンと孤独な老人』


■ 『乙女の祈りと老人』


■ 『ピアノとお座敷老人』


■ 『孤独で寂しい太田将宏』



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■ 『クラシックを愛すれど』


■ 『女性を愛せない老人ボケ』


■ 『ボダとキレた老人』


■ 『母という病』


■ 『日本人は嘘つき』



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■ 『マジでピッタリ!』


■ 『成りすまし老人』


■ 『バカな大人にならない』


■ 『成りすまし老人の告白』


■ 『だまそうとする老人』


■ 『バカの壁の増設』


■ 『ウソの雪ダルマ』


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■ 『新渡戸稲造と太田将宏』


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■ 『加藤清正と太田将宏』


■ 『老人の性と太田将宏』


■ 『ノブレス・オブリージュと太田将宏』


■ 『世渡りの道と太田将宏』


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■ 『日本語と太田将宏』


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■ 『葛飾北斎と太田将宏』


■ 『女の性的飢餓感』


■ 『敵に塩を送る』


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■ 『手紙と絶交』


■ 『短気は損気』


■ 『不思議な日本語』


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■ 『自作自演じゃないよ』


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■ 『かい人21面相事件』


■ 『悪名と名声』


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下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



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by denman705 | 2017-11-29 04:41 | 太田将宏批判

伯母と叔母 (PART 1)



 


伯母と叔母 (PART 1)


 



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デンマンさん。。。、どういうわけで“伯母と叔母”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?



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オマエの伯母と僕の叔母について語り合おうと思ったわけなんだよ。


デンマンさんはオイラの伯母に会ったことがあるのですか?


いや。。。、ない。。。


それなのに、どういうわけでオイラの伯母を取り上げる気になったのですか?


オマエが書いた次の文章に出くわしたからだよ。。。



2.11 Hildegard von Bingen (1098 – 1179)


 


私の伯父と伯母が通う横浜のあるバプテスト教会では、聖餐式の際に、葡萄酒の代わりに醗酵していない葡萄汁を使っていた。それを、伯母に話した時、教会でお酒を飲むわけがないじゃあない、との返事が返ってきた。当時、普段に私が行っていた別の教会だけではなく、普通は、新約に書かれてあるとおり、葡萄酒を使用している。それも言ったとき、だから、田舎の教会は困る、というのが彼女の返事であった。私は、こうした専業主婦の知的怠慢を憎む。こういう連中が、この世の中をおかしくしているのではないか。それに較べるなら、窃盗、詐欺などは一過性である(草子地:行間を読む、という体裁の良い言葉があるが、何のことは無い、これは勘繰りながら読むということではないか)。
日本で、一般消費税が導入されようとしていたとき、難しいことは解らないけれど、反対だ、といった主婦団体の代表がいた。解らなかったのならば、反対も賛成も言えないと思うのが常識であろう。こちら、カナダでは、もう少しは、知的訓練ができているのではないか。自分の利益にならないこと、自分の損になることには、反対して、梃子でも動かない、という態度は、どこの社会でも受け入れられるべきではない。日本の彼女らに、本当に、選挙権が必要か。
女は教会で話してはならない、と新約のコリント前書14章34節に書かれている(草子地:唱うのはいいのか)。しかし、これは、後代の加筆である、つまり、Paulus自身が書いた文ではない、という説が有力である、とのことである。ただ、この文に限らず、新約のその種の節が削除されたとか、削除の方向にある、などの話は、私は、未だかつて聞いたためしがない。それ故、この節を保持する限り、私は、Johannes-Paulus IIの女性の聖職(草子地:そんなものがあったとしての話ではあるが、)についての否定的な決裁だけは支持する。それに不満であるのならば、自分自ら新しい宗派を創るなり、新しい宗教でもでっちあげれば良いではないか。
さて、本論に入ろう。古代、中世で有効であったことが、現代に於いても意味をなすかどうかの議論は、慎重を要する。時代による差異よりも、同時代の人々の見解の違いによる差異のほうが大きいのではないか。それを推察する想像力が肝要なのであろう。次の例はどうであろうか:
Et dixerunt;<in summis columba nominator, quia innocentem turbam ad se collegit>>.
こうなのよ、そしてこうなのよ、といった、私から見ると、たわごとの説明が散々続いた後で、こうした見てきたような話にぶつかるのである。
次のはどうであろうか:
Favus distillans Ursula virgo fuit, quae Agnum Dei amplecti desideravit.
Mel et lac sub lingua eius, quia pomiferum hartum et flores flolum,
in turba virginum ad se collegit.
これがérotismeでなかったとしたら、この世界の何であろうか。そして、別の処では、次のように言っている:
Hec omnia Eva contempsit.
単純に言おう。女性の性愛の対象がAgnus Deiのときは至上の愛で、Adamに代表される人間の男である時には蔑視する、ということに他ならない。Jesusは、彼の譬話そのものが誤解の源であった、と知ったであろうか。否、Jesusには責任は無い。Jesusは、あくまで、自身と信者の
関係を花婿と花嫁に喩えたのであって、自身と女性、とくに処女との間に擬えた訳ではなかったことは明白であろう。
以上は、全てHildegard von Bingenの作品からの引用である。こうした作品のLP, CDを収集している私も、演奏家と同様に悪趣味の人間ではある。
ところで、Ursulaは、聖人に列せられたのであるが、Hildegardの方は、法王庁がそれを拒否、却下したとのことである。私は、聖別とは、超越の業であって、教皇などの分別ではない、と考える側にいるので、する方も、される方も同程度だ、と見做す一方、聖女とは神につかえるマゾヒスト(草子地:倉橋由美子の<聖少女>より引用)を思ってみると、Hildegardに関して、ある程度は、教皇庁の決定も納得できるのである。
私は、J.S. Bachと同時代の詩人C. M. von Zieglerに、神を見た、と言ったHildegardに共通するような嫌らしさを感じる。これは、ある種の神秘主義の故か、とも思われるが、女性の知的怠慢の、超主観的な、神秘主義ほど嫌悪すべきものはないであろう。磯山雅も、Zieglerに対するバッハの評価は、そう高かったわけでもなさそうである、と控えめに書いている(バッハ=魂のエヴァンゲリスト)。それでも、Bachは、彼女の歌詞によるKirchenkantatenを9曲書いていた。例を<<Auf Christi Himmelfahrt Allein>>(BWV 128)から挙げておく:
Ich bin bereit, comm, hole nicht! Hier in der Welt ist Jammer, Angst und Pein;
hingegen dort, in Salems Zelt, werd ich verkläret sein.
Da seh ich Gott von Angesicht zu Angesicht,
wie mir sein heilig Wort verspricht.
……
Ich sehe durch die Sterne, das er sich schon von ferne zur Rechten Gottes zeigt.
コーダ (蛇足):
良い方を選んだ、とJesusから言われた、妹Mariaは、新約の全部を通して沈黙していた。私は、むしろ、Marthaをひいきにしているので、彼女を弁護する。姉Marthaだって、シナゴグや教会でしゃべった訳ではない、と。




赤字はデンマンが強調)


49-50 ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より



あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。


それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!


 


海外からのアクセス@Denman Blog


 



(wp71008map.png)




(wp71008.png+wp71008b.png)


『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog


 



133ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?



いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。


マジで。。。?


僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。



2.11 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (1098 – 1179)



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私の伯父と伯母が通う横浜のあるバプテスト教会では、聖餐式の際に、葡萄酒の代わりに醗酵していない葡萄汁を使っていた。



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それを、伯母に話した時、教会でお酒を飲むわけがないじゃあない、との返事が返ってきた。
当時、普段に私が行っていた別の教会だけではなく、普通は、新約に書かれてあるとおり、葡萄酒を使用している。
それも言ったとき、だから、田舎の教会は困る、というのが彼女の返事であった。


私は、こうした専業主婦の知的怠慢を憎む。
こういう連中が、この世の中をおかしくしているのではないか。
それに較べるなら、窃盗、詐欺などは一過性である。
(草子地:行間を読む、という体裁の良い言葉があるが、何のことは無い、これは勘繰りながら読むということではないか)


日本で、一般消費税が導入されようとしていたとき、難しいことは解らないけれど、反対だ、といった主婦団体の代表がいた。
解らなかったのならば、反対も賛成も言えないと思うのが常識であろう。


こちら、カナダでは、もう少しは、知的訓練ができているのではないか。
自分の利益にならないこと、自分の損になることには、反対して、梃子でも動かない、という態度は、どこの社会でも受け入れられるべきではない。
日本の彼女らに、本当に、選挙権が必要か。


女は教会で話してはならない、と新約のコリント前書14章34節に書かれている。
(草子地:唱うのはいいのか)
しかし、これは、後代の加筆である、つまり、パウロ自身が書いた文ではない、という説が有力である、とのことである。


ただ、この文に限らず、新約のその種の節が削除されたとか、削除の方向にある、などの話は、私は、未だかつて聞いたためしがない。
それ故、この節を保持する限り、私は、ヨハネ・パウロ2世(ローマ教皇)の女性の聖職(草子地:そんなものがあったとしての話ではあるが、)についての否定的な決裁だけは支持する。
それに不満であるのならば、自分自ら新しい宗派を創るなり、新しい宗教でもでっちあげれば良いではないか。


さて、本論に入ろう。
古代、中世で有効であったことが、現代に於いても意味をなすかどうかの議論は、慎重を要する。
時代による差異よりも、同時代の人々の見解の違いによる差異のほうが大きいのではないか。
それを推察する想像力が肝要なのであろう。次の例はどうであろうか:



Et dixerunt;<in summis columba nominator, quia innocentem turbam ad se collegit>>.


こうなのよ、そしてこうなのよ、といった、私から見ると、たわごとの説明が散々続いた後で、こうした見てきたような話にぶつかるのである。
次のはどうであろうか:



Favus distillans Ursula virgo fuit, quae Agnum Dei amplecti desideravit.
Mel et lac sub lingua eius, quia pomiferum hartum et flores flolum,
in turba virginum ad se collegit.


これがエロティシズムでなかったとしたら、この世界の何であろうか。
そして、別の処では、次のように言っている:



Hec omnia Eva contempsit.


(さて、このすべてをイブは拒否しました。)


単純に言おう。
女性の性愛の対象が神の子羊のときは至上の愛で、アダムに代表される人間の男である時には蔑視する、ということに他ならない。


イエス・キリストは、彼の譬話そのものが誤解の源であった、と知ったであろうか。
否、イエス・キリストには責任は無い。


イエス・キリストは、あくまで、自身と信者の関係を花婿と花嫁に喩えたのであって、自身と女性、とくに処女との間に擬えた訳ではなかったことは明白であろう。
以上は、全てヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作品からの引用である。
こうした作品のLP, CDを収集している私も、演奏家と同様に悪趣味の人間ではある。



(ursula02.jpg)


   聖人 ウルスラ


ところで、ウルスラは、聖人に列せられたのであるが、ヒルデガルトの方は、法王庁がそれを拒否、却下したとのことである。
私は、聖別とは、超越の業であって、教皇などの分別ではない、と考える側にいるので、する方も、される方も同程度だ、と見做す一方、聖女とは神につかえるマゾヒスト(草子地:倉橋由美子の<聖少女>より引用)を思ってみると、ヒルデガルトに関して、ある程度は、教皇庁の決定も納得できるのである。


私は、J.S.バッハと同時代の詩人C. M. フォン ジーグラーに、神を見た、と言ったヒルデガルトに共通するような嫌らしさを感じる。
これは、ある種の神秘主義の故か、とも思われるが、女性の知的怠慢の、超主観的な、神秘主義ほど嫌悪すべきものはないであろう。
磯山雅も、ジーグラーに対するバッハの評価は、そう高かったわけでもなさそうである、と控えめに書いている(バッハ=魂のエヴァンゲリスト)。



(ziegler2.jpg)


C. M. フォン ジーグラー


それでも、バッハは、彼女の歌詞によるKirchenkantatenを9曲書いていた。
例を『ただキリストの昇天によりてのみ』(BWV 128)から挙げておく:



Ich bin bereit, comm, hole nicht! Hier in der Welt ist Jammer, Angst und Pein;
hingegen dort, in Salems Zelt, werd ich verkläret sein.
Da seh ich Gott von Angesicht zu Angesicht,
wie mir sein heilig Wort verspricht.
……
Ich sehe durch die Sterne, das er sich schon von ferne zur Rechten Gottes zeigt.


コーダ (蛇足):


良い方を選んだ、とイエス・キリストから言われた、妹マリアは、新約の全部を通して沈黙していた。
私は、むしろ、マルタをひいきにしているので、彼女を弁護する。
姉マルタだって、シナゴグや教会でしゃべった訳ではない、と。




赤字はデンマンが強調)


49-50 ページ
『後奏曲集(後書きばかり)作品 3』より



ところで、オマエが上の文章をPDF形式でネットで公開したようだけれど、上のリンクをクリックしたら、もう削除されてないよ。。。 オマエ、また管理人に抗議してシカトされたのだろう!?



判りますか?


あのさァ~、オマエは以前にも「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんに掲載を断られてしまった。 それなのに、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に次のように文句を言っている! 



太田将宏著作集 (E-Book Mode)



告発状以下の筆者自身の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりました。


その一切の経過につき、筆者の告発文書、<<ボイジャー、ロマンサーへの抗議録>>を
上の告発状をclickして御参照願います。




Ⅰ あれかこれか


哲学 (実践知性批判、Sartreを中心に)、


神学(純粋意識批判、Kierkegaardを中心に)




Ⅱ 愛と生命の摂理


文学(ドストエフスキーを中心に)




Ⅲ 前奏曲集 第一集


音楽(あるアマチュアの覚書、(批評の批評 ⅰ)




Ⅳ 前奏曲集 第二集


音楽(私はアマチュアである、(批評の批評 ⅱ)




Ⅴ 間奏曲集


音楽(主題なき変奏、(言葉と音楽 ⅰ)




Ⅵ 後奏曲集


音楽(後書きばかり、(言葉と音楽 ⅱ)




Ⅶ 瞬間


書簡集




『EBOOK MODE』より


『失意の太田将宏』にも掲載
(2015年12月12日)



オマエは太田将宏の著作がボイジャー、ロマンサー(社長:鎌田純子)の一方的な暴挙で読めなくなりましたと書いたけれど、重要な2つのことでオマエは間違いを犯している。



その重大な 2つの間違いとは、いったい何ですか?


まず、オマエは“著作”と書いているけれど、オマエの書いたものは“下書き”なのだよ!。。。 作品というには程遠い。。。 ヒルデガルト・フォン・ビンゲンについての文章を見れば一目瞭然なのだよ!


やっぱり、日本語が理解できる人のために解り易く できるだけ日本語で書くべきですか?


当たり前だろ! 要するに、オマエは“現実感を喪失”しているのだよ。。。 ネット市民の皆様が読むようには書かれてない! 英語の単語がやたらに散りばまられて、しかも、似非ドイツ語や、似非ラテン語までが注釈なしに散りばめられている。。。 極めて読みづらい。。。 改行がなく、やたらに長い持ってまわった言い回しになっている。。。 オマエの文章を見ると読む気がしなくなるのだよ!


デンマンさんの“バカ野郎文章”の方が、もっと酷(ひど)いと思うのですけれど。。。で、2番目の重大な間違いとは。。。?


だから、すでに言ったように、オマエは自分の欠点を棚に上げて 「ボイジャー」の社長に文句を言っている! 悪いのは 「ボイジャー」の社長じゃなく、オマエの未熟な“下書き”なのだよ!  「ボイジャー」の社長は当然のことをしたまでだよ! オマエの“下書き”はネット市民の皆様に公開されるには 未熟で未完成なのだよ!


それは、デンマンさんの個人的な意見ですよ!


僕の個人的な判断じゃなくて、現に 「ボイジャー」の社長の鎌田純子さんが掲載を拒否したのだよ! 当然のことだよ! しかも、止せばいいのに、僕に対する抗議文までネットで公開している!



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』



つまり、オマエは、文章の中だけじゃなくて、どこへ行っても人間関係を破綻に導いているのだよ!



要するに、オイラと伯母の関係も破綻していると言いたいのですか?


その通りだよ! オマエは「私は、こうした伯母の知的怠慢を憎む」と明言している! しかも、「日本の彼女らに、本当に、選挙権が必要か」とまで書いている! これでは、女性蔑視に他ならないじゃないかァ!


そうでしょうか?


だから、オマエは女性系家庭で孤立してしまうのだよ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。


長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。


その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。



(kierke02.jpg)


Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。


私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。


ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。



しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。


S.D.G


コーダ(蛇足):


私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。


S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者


S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。


F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月


『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)



デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?



あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?


覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!


とにかく、オマエは性格的に人間関係をうまくやってゆくことができないのだよ。


そのように決め付けないでください。。。 ちなみに、デンマンさんは叔母さんとうまくやっているのですか?


当たり前だろう! オマエと伯母の関係を比較するために、僕の叔母を取り上げたのだよ!


デンマンさんは叔母さんとルンルン気分の関係なのですか?


そうだよ。。。 ちょっと次の小文を読んでごらんよ。




(lotustl2.jpg)



多佳子・叔母さんは デンマンさんにとっては“お姉さん”のような人なのですわねぇ~。。。



そうなのです。。。 僕の母親の一番下の妹で。。。 20歳も年が離れていたので、まるで母親と娘のように親しくしていました。。。 僕と叔母とは6歳しか年が離れてないのです。。。 僕が生まれて間もない頃、お袋が実家の田植えの手伝いに行ったら、7歳の叔母が小さな僕を見て どうしても僕をおぶるんだと言ったらしのですよ。。。


それで、7歳の叔母さんはデンマンさんを背中に おぶったのですか?


ちょっと危なげだったけれど、どうしてもと言って聞かないので、仕方なく お袋が おんぶさせたというのです。。。



(komori2.gif)



それ以来、デンマンさんは実のお姉さんのように親しく付き合っているのですか?



そういうことです。。。


私も、一度だけ多佳子・叔母さんを遠くから見たことがありましたけれど。。。


そういうことがありました。。。 小百合さんが運転する車で鴻巣市の叔母の家まで行ったのですよ。。。 でも、小百合さんは、どういうわけか 「ちょっと今日は遠慮しておきますわ」と言って、会わなかった。。。


デンマンさんが、急に行こうと言い出したので、私には心の準備ができてませんでしたから。。。




『行田物語 古代蓮』より
(2017年8月10日)



つまり、多佳子・叔母さんがデンマンさんをおんぶしたので親しい関係にあると言いたいのですか?



そうだよ。。。 オマエは伯母さんにおんぶされたことがないだろう?


ありません。。。 オイラも伯母もお互いに嫌悪しているので、オイラが伯母におんぶされるというようなことはあり得ようがありませんでした。


要するに、オマエが幼児の頃から、伯母さんとは犬猿の間柄だったんだよなァ~。


やっぱり、オイラが幼児の頃に伯母におんぶされなかったということが宿命的にオイラと伯母の嫌悪関係を育(はぐく)んだのでしょうか?


そうだよ! たぶん、オマエは“姥捨て山”に伯母さんを捨てに行く時だけ ルンルン気分で老婆を背負ってゆくと思うのだよ。



(ubasute2.jpg)



(foolw.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-11-25 07:34 | 太田将宏批判

伯母と叔母 (PART 2)



 


伯母と叔母 (PART 2)



【レンゲの独り言】



(manila07.gif)


ですってぇ~。。。


これまでに、デンマンさんは太田さんのことで いろいろと記事を書いてますから、


太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』


 


すると、デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。


『嘘を書く日記』


 


太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。


でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。


あなたは、どう思いますか?


とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。


太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。


中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。


また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。


スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、


相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って


読者に登録してしまったりするものですわァ。


どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。


悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと


てぐすね引いて待っているのですから。。。


悪徳サイトを利用して、


メールアドレスで登録したりすると、


あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。


あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには


騙されないと思い込んでいるでしょう?


でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。


とにかく気をつけてくださいね。


次回も、さらに面白い話題が続きます。


あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。


では。。。



(hand.gif)


あなたが絶対、


見たいと思っていた


面白くて実にためになるリンク



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』


■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』


■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』


■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


■ 『ちょっと心にぐっと来る動物物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
(godiva05.jpg)


■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』



(yuri02.jpg)


■ 『相変わらず馬鹿か?』


■ 『馬鹿やめたのね?』


■ 『馬鹿やめて久しぶり』


■ 『馬鹿やって人気?』


■ 『悪事千里を走る』


■ 『悪縁を断つ』


■ 『失意の太田将宏』



(hooker08.gif)


■ 『悪縁を切れ!』


■ 『心の平穏』


■ 『レモンと孤独な老人』


■ 『乙女の祈りと老人』


■ 『ピアノとお座敷老人』


■ 『孤独で寂しい太田将宏』



(yuri03.jpg)


■ 『クラシックを愛すれど』


■ 『女性を愛せない老人ボケ』


■ 『ボダとキレた老人』


■ 『母という病』


■ 『日本人は嘘つき』



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■ 『マジでピッタリ!』


■ 『成りすまし老人』


■ 『バカな大人にならない』


■ 『成りすまし老人の告白』


■ 『だまそうとする老人』


■ 『バカの壁の増設』


■ 『ウソの雪ダルマ』


■ 『知らずの自分史』


■ 『新渡戸稲造と太田将宏』


■ 『ショーペンハウエルと太田将宏』


■ 『ホーキング博士と太田将宏』


■ 『加藤清正と太田将宏』


■ 『老人の性と太田将宏』


■ 『ノブレス・オブリージュと太田将宏』


■ 『世渡りの道と太田将宏』


■ 『フェアプレーと太田将宏』


■ 『ネット恋愛と太田将宏』


■ 『日本語と太田将宏』


■ 『坊主の袈裟と太田将宏』



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■ 『葛飾北斎と太田将宏』


■ 『女の性的飢餓感』


■ 『敵に塩を送る』


■ 『虚構とウソ』


■ 『手紙と絶交』


■ 『短気は損気』


■ 『不思議な日本語』


■ 『乙女の祈りだわ』


■ 『自作自演じゃないよ』


■ 『マリリンdeアイドル』


■ 『マリリンに誘われて』


■ 『かい人21面相事件』


■ 『悪名と名声』


■ 『嘘を書く日記』


■ 『増長慢』


■ 『自然に耳を傾ける』


■ 『老人極楽クラブ』



(juneswim.jpg)



『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


『センスあるランジェリー』



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by denman705 | 2017-11-25 07:33 | 太田将宏批判

老人極楽クラブ (PART 1)



 


老人極楽クラブ (PART 1)


 



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デンマンさん。。。、どういうわけで“老人極楽クラブ”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?



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あのさァ~、たまにはオマエが幸せな気分になるような話をしようと思ったわけぇ~。。。


いつもオイラを馬鹿にしているデンマンさんらしくない奇特な企画ですねぇ~。。。 うへへへへへへ。。。


オマエもうれしいだろう?


デンマンさん!。。。 そのような高い目線でオイラを見下さないでくださいよう。。。 これでもオイラは早稲田の理工学部の数学科を優秀な成績で卒業したのです。。。 もし、ノーベル賞に数学部門があったら、オイラはとっくの昔にノーベル賞を受賞していたのですよ。。。


あのさァ~、この記事を読んでいるネット市民の皆様が呆れるような事を言うなよ! んもおおおォ~。。。! だから、オマエはネット市民の皆様にも馬鹿にされ、可哀相な孤独な男だと思われて見下されているのだよ!


マジで。。。?


当たり前だろう! オマエはとにかく自尊心と自惚れ(ウヌボレ)だけは、誰よりも肥大しているのだよ!


その証拠でもあるのですか?


あるのだよ。。。 よせばいいのに、オマエは馬鹿だから、ネットで次のように公開しているのだよ!



言葉 - この世話がやける手段


F. M. 様



ご無沙汰をしております。お元気でご活躍かと思われますが、その後、F. M. さんは如何お過ごしですか。
引退は、まだ遠いことなのでしょうか。F. M. さんの近況を知らせて頂けませんか。


…(中略)…


以前に、F. M. さんから、私は読者に親切でないから、と書かれてきたのですが、他の人からも指摘されたことに外来語をカタカナで書かないこともあったのでしょう
(私も一方では、ドストエフスキーについて書くときに限って、ロシア文字を書けないので、カタカナを使わざるを得ない、という不徹底さがあり、残念に思っていますが、しかし、日本で働いていたときでも、外来語がラテン文字である限りは、alphabetを混えて技術書を書いておりました。別に誰からもひんしゅくをかいませんでしたが、皆が呆れて諦めていたのでしょう)。


日本では、何故か、英語では、二重母音を長母音(例を挙げればきりがないのですが、informationをインフォメーション)などの理解できない慣例が多く、ドイツ語では母音が続かないときの子音は無声音であるはずなのに(例として、Burgmuelerをブルグミューラア、また、この例では最後のアは不要でしょう)、などの妙な慣習(更なる例として、Schweizerをシュワイツァー、ドイツ語でのwは英語やフランス語のvの発音)が観られますね。
漢字、平仮名、カタカナ、アラビア数字混じりの現代の日本文で、何ゆえalphabetだけが忌避されるのか疑問に思いませんか。
また、Los Angelesをロスなどといって粋がっている輩もおりますが、Losというスペイン語起源の単語は、英語で言うならばtheにすぎなく(但し、男性複数名詞用の定冠詞)、Los Angelesとは、もともとがThe Angelsの意味であるぐらいのことは、alphabetを使っていたならば、そして、最低限の想像力があるならば、推測できてしかるべきことではないでしょうか。
また、ロスアン…ではなく、ロサン…であるべきということにも敏感にならざるをえないですね。
当方での日本人を見ていても、そうした疑問を抱いております。日頃、言葉そのものについて無神経であるから外国語の習得にも苦労するのですね。
そういえば、F. M. さんのsiteを読んでいたとき、W.A. Mozartの<<Requiem>>を「モツレク」などと言語不明瞭意味不明瞭に略すのを批判しておられましたが、日本では、それに限らず、品の無い造語が氾濫しているではないですか。
こうした若輩に迎合するから、新仮名使い当用漢字の夏目漱石や谷崎源氏などの、低きに合わせた日本文化に堕落しつつある、と思われませんか。
私は、親切ではありたいのですが、迎合はしたくないので私の著作を出版できなかったということで、それでは出版を諦めよう、という心境でした。


此処で、今、また、F. M. さんが、私たちの学生時代に、太田君の妥協は妥協のうちに入らないよ、と言っていたことを思い出しております。
もっと重要なことは、これは日本人には限らないのですが、しかし、とりわけ日本人は、自分が曖昧に考えていたことを誰かが適切に表現し、書いてくれたことに同感、共感、評価するに留まることが多いですね。
彼我の違いを悦ばない、余所者を受け付けない、誰々の論理は理解できる、ではなくて、誰々の気持ちは分るわぁ、といった類です。
それが故に、言葉に於いても彼我の差には敏感になれなく、それどころか自分の母国語ででさえ曖昧になり、更に、思考能力の低下をもたらしているのではないでしょうか。
また、そこでは、自分が賛成するかしないかはさておいての他者の論理の自立、論理の終始一貫性なんぞは等閑に附される傾向が無いでしょうか。
それは理屈だよ、理屈に過ぎない、などと言う人は、生涯なんらの自らの論理体系も形成せずに終るのではないでしょうか。
それでは、ドストエフスキーの小説の登場人物(例えば、<<カラマーゾフの兄弟>>のイワンなど)の思い、自分は、ぎりぎりのところ、こうとしか考えられないけれど、それでは自他が辛すぎる。


むしろ自分が間違っていたらならばよいのだが、のような煩悶、苦悩、願望の弁証法の片鱗も理解できないでしょう。
私は、傲慢な私に戻ったようです。しかし、日本人の謙遜、謙譲のgestureというものは、多くの場合、何のこと無い、自己保身にすぎないのではないでしょうか
(それは、当方の世間、世界では通じない甘えですので、二、三を除いては、こちらの日本人との付き合いは無くなってきました)。
私は、何もかも此方の方がよいとしているわけではありませんが、傲慢になったついでに書きますと、私は、私が書き続けた著作には、高い水準で、日本では、いや世界では始めての見解が此処彼処に読みとれられる、と自負しているのですが、反面、読み手から反応が少ないのは私が浅学で夜郎自大だからかなのだろうか、と小心な私は一方で首を傾げておりますが、如何でしょうか。




赤字はデンマンが強調)
108-109ページ
『書簡集』より


『増長慢』にも掲載
(2017年7月10日)




オマエは、こうして「私(太田将宏)が書き続けた著作には、高い水準で、日本では、いや世界では始めての見解が此処彼処に読みとれられる」と言うような、オマエを哀れむのを通り越して、読む人が恥ずかしくなるような事を ぬけぬけと主張しているのだよ!



分かりました。。。 それで、どういうわけで急に“老人極楽クラブ”を持ち出したのですか?


あのさァ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。




(shizuko02.jpg)


 


70歳になる私は、毎日が恐怖である。
物忘れの加速が尋常ではない。
何かをするために、立ち上がり、立ち上がった時に、何をするのか忘れている。
そして、ただ呆然と立っている。


呆け始めの母と同じになってしまった。
母は非常に度々、呆然と立っていた。
母が呆然と立っている姿は、周りに5センチぐらいのもやがとりまいている様だった。


私も同じもやにつつまれているにちがいない。
今、私は年相応の物忘れか、母と同じ痴呆症なのか、区別がつかない。
区別がついてどうだと云うのか。 (略)


私も死ぬ。
生まれて来ない子供は居るが、死なない人は居ない。
夜寝るとき、電気を消すと毎晩母さんが小さな子供を3人ぐらい連れて、私の足元に現れる。


夏大島をすかして見る様に茶色いすける様なもやの中に母さんと小さな子供が立っている。
静かで懐かしい思いがする。


静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。
ありがとう。
すぐに行くからね。


 


(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




237-238ページ 『シズコさん』
著者: 佐野洋子
2008年7月20日 第8刷発行
発行所: 株式会社 新潮社



つまり、デンマンさんも静かで、懐かしいそちら側に、私も行く。 ありがとう。 すぐに行くからねと言う所に共感したのですか? デンマンさんも、ついに死期が近づいてきたのですねぇ~。。。 うへへへへへへ。。。



あのさァ~、僕はオマエが共感するのじゃないか!?。。。 そう思ったから上の小文を引用したのだよ! オマエは自分が書いたことを忘れてしまったのォ~?


ん。。。? オイラが何を忘れているとデンマンさんは言うのですか?


今朝、ロブソンストリートをバンクーバー図書館に向かって歩いていたら、カード屋さんのショーウィンドウに次のカードが飾ってあった。



(drinking9.jpg)



オマエのことを考えたら、むしろ Drinking よりも Aging にした方が笑えると思ったのだよ。。。



 



(ireba03.jpg)


 


Aging can cause


memory loss...


 


or even worse ...


er... er ...


memory loss.


 




英語が苦手なオマエでも、この程度のジョークはわかるよねぇ~。。。?! (モナリザの微笑)



。。。で、オイラが何を忘れている、とデンマンさんは言うのですか?


オマエは次のように書いていたじゃないかァ!




私は、この曲集を書き終えたとき、老人見習いから、正真正銘の老人になるのではないか、と思うこの頃である。
真の老人とは、もはや、失うべき何ものも無くなった人のことを言うのではないか。


長女は、私から去った。
次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。
家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなる。


私には、S.Kierkegaard の言った、一番易しく一番難しいこと、すべてを捨てること、が、案外、無理なくできるのではないか。
いや、その時には、捨てるべき何ものも見当たらなくなった境地であろう。


その意味では、老人になる前に、不慮の死で亡くなった人は気の毒である。
私は、若い時に、死ぬのはいいが風邪をひくのは嫌だ、などと言って、粋がって与太をほざいていた。
今も、願わくは、あまり苦しむことなく死を迎えられたなら、それにこしたことはない、と考えている。


Kierkegaard は、また、永遠とは有限が無限に出会う瞬間である、と言っていた。
私の人生に、かつて、そのような瞬間があったであろうか。
いや、それもまた、超越の命題であろう。


私の人生は、無明に迷ったそれに終わるのかもしれない。
しかし、私の背後には、母の祈りがあった。


ある麻薬中毒患者が、お母さん、僕は、こんな遠くまで来てしまった、と淋しげに呟いていたが、私は、麻薬中毒者ではないけれど、その気持ちが解かっている、と思う。
どのみち、人生は、rehearsal無しの、ぶっつけ本番なのである。


しかし、私は、F.M.Dostoevsky の「白痴」にある、あの「イッポリトの告白」に書かれているように、もし、生まれる前に、この条件を知らされていたとしたならば、私は、生まれるてくることを肯(がえ)んじなかったであろう、とは思っていない。
私は、感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこう。


S.D.G


コーダ(蛇足):


私の懐疑なるものが、深いのか、深くないのか、私自身も知る由もない。
仮に、深かったとしても、そもそも、懐疑の深さというものは、誇るべきものであるのか、という疑問が残る。




【デンマン注:】 改行を加え読み易くしました。あしからず。


S.Kierkegaard: キルケゴール (1813-1855) デンマークの哲学者


S.D.G.: Soli Deo Gloria (ラテン語) To God Alone the Glory(英語) 神に栄光あれ。


F.M.Dostoevsky: ドストエフスキー (1821-1881) ロシアの小説家・思想家




56-57ページ Michel-Richard de Lalande
『後奏曲集(後書きばかり)』 作品3
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年9月


『馬鹿やって人気?』にも掲載
(2015年8月18日)



デンマンさん! いったい何度この手記を引用すれば気が済むのですかァ~?



あれっ。。。 オマエは覚えてるのォ~?


覚えてますよう! これまでに上の手記をデンマンさんは何度も何度も記事の中で引用したのですよ!


でも。。。、でも。。。、オマエは思い出さなかったじゃないかァ!


まさかァ。。。、まさかァ~。。。、上の手記のことをデンマンさんが考えているとは想像がつかなかっただけです。。。 決して忘れていたわけではありません!


とにかく、オマエの長女は、私(太田将宏)から去った。 次女は、中立を保つ為に、この家に寄りつかない。 家内と言えば、日本語も通じなくなってから何年にもなるわけで、結局 オマエは孤独の中で感謝して死ねるように、今からでも、心の準備をしておこうというわけだよ。。。 そうだろう!?


それで、デンマンさんが“老人極楽クラブ”の会長になって、オイラを温かく迎えてくれるというわけですかァ~?


何で僕が“老人極楽クラブ”の会長にならなければならないのォ~?


だってぇ~、デンマンさんは もうすぐに70歳になるじゃありませんかァ!


あのさァ~、オマエは80歳になるので、他の誰もが70歳になるように見えるのだろうけれど、それはオマエの脳力と視力が老化したためだよ。。。 僕は まだ壮年期の真っ最中なんだよゥ!


ウソだァ~♪~い~。。。!


そのように疑り深くなるのもオマエの脳力と視力が老化したためだよ。。。


。。。で、だれが“老人極楽クラブ”の会長になるのですか?


あのオノ・ヨーコさんに会長になってもらおうと考えているのだよ!




(onoyoko.jpg)


70歳になったときは、とても嬉しかった。
よくぞ70歳まで生きながらえたと思いました。


 (中略)


不運か幸運か私の人生には、激しい出来事ばかりが起こったので年齢のことを考えている余裕がありませんでした。
ですから、60歳になったときも、
「あなたも60歳ですね」
などと人から言われても、
「あれ、そお?」
なんて、ぐあいでした。


ところが、70歳を迎えたときはまったく違う感触でした。
ここまで生きながらえたことに対して誇りみたいなものを感じたのです。


 (中略)


自分がやりたい仕事がまだたくさんあります。
「あと50年ちょ~だい」
と言いたい。


自分というものをもっと生きてみたい。
今は私の人生のプロセスだと思っています。
私にとって人生はまだまだ未知数なのです。


(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




51-54ページ 『今あなたに知ってもらいたいこと』
著者: オノ・ヨーコ
2010年1月15日 第2刷発行
発行所: 株式会社幻冬舎



この文章を読んだときに僕はオノ・ヨーコさんが哀れで愚かで孤独で可哀想な とっくに70歳を過ぎた太田将宏老人のような人物を励ますために書いたのではないかと思ったわけだよ。



デンマンさんは、マジでそう思ってくれたのですか?


そうだよ! だから、少しは反省して、これからは まともなコメントを書いて欲しい。



(foolw.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-09-30 03:08 | 太田将宏批判

老人極楽クラブ (PART 2)



 


老人極楽クラブ (PART 2)



【レンゲの独り言】



(manila07.gif)


ですってぇ~。。。


これまでに、デンマンさんは太田さんのことで いろいろと記事を書いていますから、


太田さんとしても次のサイトだけは残しておきたいのかもしれませんわァ。。。



(kogiroku9.png)


『実際の抗議録』


 


すると、デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。


『嘘を書く日記』


 


太田さんはこれに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。


でも、そのうち忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。


あなたは、どう思いますか?


とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。


太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。


中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。


また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。


スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、


相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って


読者に登録してしまったりするものですわァ。


どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。


悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと


てぐすね引いて待っているのですから。。。


悪徳サイトを利用して、


メールアドレスで登録したりすると、


あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。


あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには


騙されないと思い込んでいるでしょう?


でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。


とにかく気をつけてくださいね。


次回も、さらに面白い話題が続きます。


あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。


では。。。



(hand.gif)


あなたが絶対、


見たいと思っていた


面白くて実にためになるリンク



■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』


■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』


■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』


■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


■ 『きれいになったと感じさせる


下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『あなたもワクワクする新世代のブログ』


■ 『ちょっと心にぐっと来る動物物語』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Godiva Sayuri
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■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』



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■ 『相変わらず馬鹿か?』


■ 『馬鹿やめたのね?』


■ 『馬鹿やめて久しぶり』


■ 『馬鹿やって人気?』


■ 『悪事千里を走る』


■ 『悪縁を断つ』


■ 『失意の太田将宏』



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■ 『悪縁を切れ!』


■ 『心の平穏』


■ 『レモンと孤独な老人』


■ 『乙女の祈りと老人』


■ 『ピアノとお座敷老人』


■ 『孤独で寂しい太田将宏』



(yuri03.jpg)


■ 『クラシックを愛すれど』


■ 『女性を愛せない老人ボケ』


■ 『ボダとキレた老人』


■ 『母という病』


■ 『日本人は嘘つき』



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■ 『マジでピッタリ!』


■ 『成りすまし老人』


■ 『バカな大人にならない』


■ 『成りすまし老人の告白』


■ 『だまそうとする老人』


■ 『バカの壁の増設』


■ 『ウソの雪ダルマ』


■ 『知らずの自分史』


■ 『新渡戸稲造と太田将宏』


■ 『ショーペンハウエルと太田将宏』


■ 『ホーキング博士と太田将宏』


■ 『加藤清正と太田将宏』


■ 『老人の性と太田将宏』


■ 『ノブレス・オブリージュと太田将宏』


■ 『世渡りの道と太田将宏』


■ 『フェアプレーと太田将宏』


■ 『ネット恋愛と太田将宏』


■ 『日本語と太田将宏』


■ 『坊主の袈裟と太田将宏』



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■ 『葛飾北斎と太田将宏』


■ 『女の性的飢餓感』


■ 『敵に塩を送る』


■ 『虚構とウソ』


■ 『手紙と絶交』


■ 『短気は損気』


■ 『不思議な日本語』


■ 『乙女の祈りだわ』


■ 『自作自演じゃないよ』


■ 『マリリンdeアイドル』


■ 『マリリンに誘われて』


■ 『かい人21面相事件』


■ 『悪名と名声』


■ 『嘘を書く日記』


■ 『増長慢』


■ 『自然に耳を傾ける』



(juneswim.jpg)



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by denman705 | 2017-09-30 03:07 | 太田将宏批判