デンマンが日々思ったこと考えたこと感じた事を書きます。


by denman705

カテゴリ:ミステリー( 16 )

モナリザ描きたい (PART 1)


 


モナリザ描きたい (PART 1)


 



(mona110.jpg)




(june001.gif)


あらっ、デンマンさん。。。 わたしを妄想してモナリザを描いたのですか?



(kato3.gif)


いや。。。 僕は別にモナリザを描きたかったわけではないのですよ。。。


だってぇ、タイトルにそう書いてあるではありませんか!


僕がモナリザを描きたいわけではないのです。。。 ちょっと次のリストを見てください。。。



(ame70822b2.png)


『拡大する』



これはアメブロの僕のブログの8月16日から22日までの1週間の「リンク元URL」のリストです。。。 赤枠で囲んである 31番に注目して欲しいのですよ。。。



あらっ。。。 「モナリザ 描きたい」を入れてGOOGLEで画像検索してデンマンさんのブログにやって来たネット市民が 2人居たのですわねぇ~。。。


そういうことです。。。 31番のURL をクリックすると次の画面が出てきます。。。



(gog70824b.png)



『拡大する』


『現時点での検索結果』



検索した人物は 上の画面の赤枠で囲んだ画像をクリックしたのですか?



そうです。。。 赤枠で囲んだ写真をクリックすると次の画面が出てきます。



(gog70824c.png)



『拡大する』


『現時点での検索結果』



このモナリザは、ルーブル美術館に展示されている本物のモナリザとは違いますわねぇ~。。。



さすがジューンさんですねぇ~、眼が肥(こ)えていますよ。。。


誰だって、上の絵を見れば すぐに判るではありませんかァ!


なかには判らない人もいますよ。。。 誰もがモナリザに関心があるわけではありませんからねぇ~。。。


。。。で、いったい 上の絵のモデルは誰なのですか?


だから、それが“モナリザの謎”です。。。


つまり、“モナリザの謎”というタイトルでデンマンさんが記事を書いたのですか?


いや。。。、“モナリザの謎”というタイトルでは記事を書いてません。。。 実は、赤丸で囲んだ ページを表示 をクリックすると“モナリザの謎”のテーマのページが出てくるのですよ。。。



(amethem94.png)



『拡大する』


『実際のテーマのページ』



あらっ。。。 さっきの絵のモデルは“モナリザの妹”さんなのですか?



僕が勝手にそういうタイトルを付けて記事を書いたのですよ。。。




(june001.gif)


デンマンさん。。。 モナリザに妹さんがいたのですか?



(kato3.gif)


いや。。。 誰もそんな事を言ったのを聞いたことがありませんよ。。。


でも、デンマンさんはタイトルに“モナリザの妹”と書いてるではありませんか!? それに“モナリザの妹”という絵まで貼り付けてますわァ!


あのねぇ~、実は バンクーバーの無料タウン情報誌に次のような記事が載ったのですよ。



(monalisa001.png)



つい最近、フランスの科学者が あの有名なもモナリザの絵の下に 肉眼では見えない3枚の絵が下書きのようにして隠れているのを発見したというのですよ。



その下書きにモナリザの妹さんの絵が描かれてあったのですか?


いや。。。、誰もそんな事は言ってないのですよ!


つまり、デンマンさんが勝手に言っているのですわねぇ~。。。


いけませんか?


いけませんわよゥ!。。。 そのような根も葉もない事を言うのは レオナルド・ダ・ヴィンチを侮辱するようなものですわァ。


でもねぇ~、僕が そのように言うのには理由があるのですよ。


じゃあ、その理由というのを聞かせてくださいなァ。


その前に、YouTube で フランスの科学者の発見について説明しているので ジューンさんも見てください。



(monalis8c.jpg)




上のビデオクリップによると 下絵には微笑んでないモナリザが描かれていると言うのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 で、笑ってない方の絵が本物のモナリザだと。。。 そのような事も言ってるのですよ。


でも、これってぇ、マジな研究ですか?


真面目な研究らしい。。。 だけどねぇ、ルーブル美術館の関係者はコメントを控えているのです。。。 状況を見つめながら慎重に回答しようとしているのでしょうねぇ~。。。


。。。で、デンマンさんは下絵の女性がモナリザの妹さんだと思ったのですか?


だってぇ、本物の女性よりも明らかに若いでしょう! 妹だとしてもおかしくないですよ。。。 でもねぇ~、この事については すでに以前から問題になっていたのです。


あらっ。。。 そうだったのですか?


この若い方の女性は “Isleworth のモナリザ”と言われて 知る人ぞ知る美術界の偉大な謎なのですよ。。。 僕も次の YouTube を何度も見て マジでこの謎に惹かれたのです。



(monalis8.jpg)


Secrets of the Dead


The Mona Lisa Mystery




デンマンさんの言う“モナリザの妹”も“モナリザ本人”も 権威のある科学者の分析によれば、レオナルドが描いたものだと断定してますわねぇ~。。。



そうです。。。 でもねぇ、ある美術史家は “モナリザの妹”の絵はあまりにも保存が良すぎて 500年前に描かれたものだとは到底信じることができないと言ってるのですよ。


要するに、この謎はまだ解決されてないのですわね。


そうなのです。。。 僕は、モナリザはレオナルドが母親の若い頃をイメージして描き上げたものだと信じているのですよ。


その理由は。。。?


あのねぇ~、『モナ・リザ』のモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻 リザ・デル・ジョコンドだとされているのです。


わたしも そうだと思っていましたわ。


でもねぇ~、最近の研究で 当時のフィレンツェでの記録を調べると、レオナルドにポートレートを依頼した記録も、ポートレートを受け取って代金を支払った記録も一切ないと言うのですよ。


それで、デンマンさんはレオナルドが母親の若い頃をイメージして描き上げたものだと信じているのですか?


そうですよ。。。 それに、モナリザの絵はレオナルドが死ぬ時まで一緒に持ち歩いていたのです。。。 レオナルドが依頼されてモナリザの絵を描いたのなら、死ぬまで持ち歩くとは考えられない。


でも、そうだとしたら どうしてそれが真実だと受け取られていないのですか?


あのねぇ~、中にはモナリザの母親は中国人の奴隷だったと主張する人までいるのですよ。。。 ちょっと次の記事を読んでみてください。



Mamma mia:


New Mona Lisa theory


Italian historian speculates


renowned face could be


artist's mother,


who may have been a Chinese slave.



(mona100.jpg)


An Italian historian's theory that Mona Lisa might be a Chinese slave and Leonardo da Vinci's mother---making the 15th-century polymath half-Chinese---sent online comentators into a frenzy Wednesday.


Angelo Paratico, a Hong Kong-based historian and novelist from Italy, told the South China Morning Post: "On the back of Mona Lisa, there is a Chinese landscape and even her face looks Chinese."


Chinese web users expressed astonishment and disbelief Wednesday, posting dozens of parodies of the painting.


Little is known about Caterina, the mother of the artist, writer, mathematician and inventor, and the identity of the sitter for the portrait hanging in Paris's Louvre museum has long been a matter of debate.


Paratico, who is finishing a book entitled Leonardo da Vinci: A Chinese Scholar Lost in Renaissance Italy, cited Austrian neurologist Sigmund Freud's 1910 assumption that the painting was inspired by the artist's mother.


"One wealthy client of Leonardo's father had a slave called Caterina. After 1452, Leonardo's date of birth, she disappeared from the documents," he told the paper.


Many posters on China's Twitter-like Sina Weibo were incredulous.


I'm so sad that you thought I'm a foreigner!" wrote one, with an image of a frowning Mona Lisa holding two rolls of toilet paper and blowing her nose.


I'd rather be from wherever I am loved."


Another user replaced her features with unlikely faces ranging from Chinese male comedian Zhao Benshan to British actor Rowan Atkinson, to a grimacing robot holding a Mona Lisa mask.



(monabenshan.jpg)



(monabean.jpg)



(monarobot.jpg)


The topic had been viewed more than four million times and triggered 160,000 postings by midday Wednesday.


"I now understand why her smile looks so mysterious and concealed---it's typically Chinese," said another poster.


【AFP】


(写真はデンマン・ライブラリーより)




Page 26 "The Metro News"
Thursday, December 4, 2014
metronews.ca



あらっ。。。 モナリザのモデルの女性が中国人だったと言うのですか?



そうなのですよ。。。 香港をベースに活動しているイタリア人の歴史家兼小説家が、そういうような事を言い始めたのです。


でも。。。、あのモナリザは、どう見ても中国人のようには見えませんわァ~。。。


だから、そこですよ。。。 つまり、見る人によれば、中国人にも見えるのですよ。


そうかしらァ~。。。?


あのねぇ~、背景の風景が中国の風景だと書いてある。。。 確かに、言われてみると、中国の水墨画のようにも見えるのですよ。 モナリザだってぇ、見方によれば、中国人の血が混ざっていて、どこかに東洋系の面影があるようにも見える。


そうかしらァ~。。。?


ジューンさんも、そう思って もう一度じっくりと見てくださいよ。。。 



(monalisa.jpg)



やっぱり、モナリザに中国人の血が混ざっているようには見えませんわァ。



ジューンさんは、しっかりと見ないからですよう。。。 中国人の血が混ざっているようだなァ~、と思いながら見れば、次のように見えるのです。



(mona120.jpg)



デンマンさんが中国人の女性の顔を貼り付けたというのが見え見えですわァ。



あのねぇ~、ジューンさん。。。 神経の集中力が足りないのです。。。 もし、ジューンさんの祖先がレオナルド・ダ・ヴィンチに出会っていたら、レオナルドはジューンさんの祖先をモナリザとして描いていたのですよ。



(mona110.jpg)



つまり、レオナルドは、その時にオツムに印象的に浮かんだ女性を描いたと言うことですかァ~?



その通りですよ。 レオナルドは、モナリザを描く時に自分の母親を描きたかったのです。


。。。で、レオナルドはお母さんをモデルにしたのですか?


いや。。。 レオンナルドはモデルを使わなかったのです。


どうして、モナリザを描く時にモデルを使わなかったのですか?


あのねぇ~、その事については、僕はすでに2002年に記事を書いたのです。 重複するので、ジューンさんも次の記事を読んでみてください。



モナリザのモデルは


誰だったのか?



Mona Lisa (mona3.jpg--212x180)


 


Who was Mona Lisa?



(mona3.jpg)



世界で最も有名な顔、モナリザのモデルは、ドイツの美術史家による10年の研究によると、“雌虎(The Tigress)”の愛称で有名なイタリア女性であるらしい。


レオナルド·ダ·ヴィンチによって1500年から1505年の間に描かれた絵画のモデルは誰なのか? それは長年にわたって美術史家の謎でした。


“雌虎”という人物は、誰あろう、フォルリ・イモラ公爵夫人のカテリーナ·スフォルツァです。



(caterina.jpg)


上の絵はイタリアの芸術家ロレンツォ·ディ·クレディにより、カテリーナが25歳の時に制作されたものです。


レオナルドは彼女が40歳の頃に、実際、彼女を描いています。


誇り高いポーズや、腕の位置や全体的な構造は、モナリザとよく似ていますが、いくつかの点で違いがあります。


例えば、モナリザは、高価な宝石類や豪華なドレスを身に着けていません。 その簡素な美しさで有名です。


バランスの良く取れた表情、ちょっとばかりとがった感じのあご、それに、ふくよかなまぶたなど、理想的な美しさとはどういうものか?というレオナルドの考えをモナリザの顔はよく表しています。


レオナルドと同時代の画家によって描かれた豪華に飾られた女性とは違って、モナリザは宝石類を一切身につけず、シンプルなドレスをまとい、黒のベールを身に着けています。


逆に、カテリーナ·スフォルツァは衣服やアクセサリーに凝(こ)っています。 それは、あたかも彼女のステータスや美しさを支配下の住人に印象付けるようです。


これまで、美術史家は、モナリザのモデルは、1495年にフランチェスコ·デル·ジョコンドと結婚したフィレンツェに住む若い女性だと信じていました。 それで、モナリザの絵は別名、「ラ·ジョコンダ」と言われるようになったのです。


美術史家の中には、モデルは女装趣味のある男だとか、娼婦だとか、あるいは、レオナルド自身の女装した姿だとか言う人もいます。


これまでに、あなたがレオナルドの伝記を読んだことがあるなら、ご存知のように、レオナルドは“記録魔”と言えるほど、細々とした事まで気を配る性格の人物です。 それは彼のノートブックを見れば一目瞭然です。


レオナルドのノートブックには、彼のモデルになった人物の名前が列記されています。


しかし、不思議なことに、モナリザのモデルについては どこにも書かれた記録がないのです。


どうしてなのか? いったい誰がモナリザのモデルになったのか?


ベル研究所の科学者は、レオナルドが自分自身を描いたのだと言ってます。 なぜなら、レオナルドの顔の特徴やモナリザの顔の特徴を分析することによって証明できるのだそうです。


科学者は、レオナルドの自画像とモナリザの両方をデジタル化し、自画像を反転して、コンピューターを使って2つのイメージを重ね合わせました。すると、ぴったりと2つの顔の表情が一致したのです。



(monalisa9.jpg)


ここで示すとおり、レオナルドがモナリザになり、またモナリザがレオナルドになる様子が解ると思います。



(leomona.gif)



あなたはこれまでに モナリザには眉毛もまつげも無いことに気づきましたか?


彼女の目はちょっぴり悲しそうで。。。また、彼女の微笑には、ちょっと ほくそ笑むようなところが感じられますよね。。。若い女性の表情ではありません。


レオナルドを理解するには、彼の母親について知る必要があります。


フィレンツェの近郊にあるヴィンチという小さなトスカーナ地方の町の片隅で、レオナルドは1452年4月15日に生まれました。裕福なフィレンツェの公証人の息子でした。母親はレオナルドの祖父母の家で使用人として働いていたようです。


いずれにしても、彼女は裕福な家の出身ではありませんでした。


レオナルドの父親は、数人の女性と結婚しました。 妻になった女性は、それぞれがフィレンツェの良家の出身でした。 しかし、20年以上にわたって、彼にはレオナルドの他に子供ができませんでした。



(davinci70.jpg)


The Life of Leonardo da Vinci




レオナルドが14歳になった時、彼はフィレンツェのアンドレア·デル·ヴェロッキオのスタジオに徒弟として住み込みました。


モナリザを描くのに、レオナルドはモデルを使う必要は無かったのです。 なぜなら、彼は母親の表情を良く知っていたからです。


そうです。 モナリザのモデルは彼の母親だったという可能性が一番高いのです。


モナリザが彼自身のように見えるのは不思議ではありません。 なぜなら、男の子は母親に似る傾向があるからです。


レオナルドは、女装して自画像を描いたわけではなかったのです。


まず第一に、彼は自分自身を描くことに興味がありませんでした。


自画像を多く残したアルブレヒト·デューラー、レンブラント·ファン·レインのような画家と異なり、彼の興味と関心は、基本的に、彼以外のすべてのものでした。 だから、レオナルドには自画像が極めて少ないのです。


彼の青年時代、レオナルドはほとんど彼の母親に会ってません。 彼はおそらく回数を数えることができるほど、母親とほとんど会ってないはずです。


モナリザの謎の微笑はレオナルドと彼の生みの母親であるカタリナとの関係に関係がありそうです。


レオナルドは母親を愛していました。


彼女はレオナルドを自分で育てることができなかったけれど、レオナルドとは強い絆を感じていました。


母親が亡くなった時、レオナルドは高価な葬儀の費用を自分で支払いました。


レオナルドは旅行に出かける時は、いつでもモナリザを持参しました。


もしカテリーナ·スフォルツァがレオナルドに肖像画を描かせたとしたら。。。、もしフランチェスコ·デル·ジョコンドが妻の肖像画をレオナルドに注文したとしたら、どうして レオナルドは彼と一緒に いつも モナリザの絵を持ち運んだのでしょうか?


もし、そうだとしたら、あなたにはレオナルドの行動が全く理解できないはずですよね。


モナリザのモデルが、彼の母親だったとしたら、あの絵の謎は完全に解決したと思いませんか!


思い出してください。 レオナルドの母親は、裕福な良家の出身ではありませんでした。 また、レオナルドの理想の美しさは簡素な美しさなのです。 高価な宝石類や豪華なドレスなど、彼の目の内には無いのです。


レオナルドの同時代の画家によって描かれた豪華に飾られた女性とは違って、モナリザは宝石類を誇示していません。 シンプルなドレスと黒のベールを身に着けているだけです。


晩年に、レオナルドは、フランスに行きました。


フランシス1世は彼を歓迎し、自分の城の近くに彼の小さな城を建てました。 そうすればレオナルドが晩年に病気になった時に治療が受け易いからです。



(francis01.jpg)



フランス王は非常にレオナルドを尊敬し、彼の作品と才能を賞賛しました。


彼はレオナルドと対面することを光栄に感じました。


フランス王はモナリザの絵を賞賛しました。 なぜなら、そのモデルがレオナルドの母親だったからです。


もし、モナリザの絵のモデルがフランチェスコ·デル·ジョコンドの妻だったとしたら、フランス王は同じように賞賛したでしょうか?


モナリザの絵のモデルがフランチェスコ·デル·ジョコンドの妻だったとしたら、人生の最後の年月に、レオナルドは店主の妻の絵に、(常にモナリザを身近に置いておくような)それほどの気遣いをしたでしょうか?


おそらく、モナリザの謎については、今後も議論が続くでしょう。 誰かがはっきりとした証拠を見つけるまでは。。。


それまでの間、あなたも、モナリザのモデルは誰だったのか? 考えてみてください。




『Who was Mona Lisa?』より
(2002年6月12日)
(デンマン注: 原文は英文です。)



でも、レオナルドのお母さんに中国人の血が混ざっていたかどうか? デンマンさんは何も書いてないじゃありませんか?



はっきり言って、見る者にとって、モナリザの絵のモデルが誰だったか? そのような事はどうでもいいのですよ。 モデルがレオナルドの母親だとしても、その母親に中国人の血が混ざっていたかどうか? そのような事を詮索するのは野次馬根性に過ぎないのですよ。



(monajpn.jpg)



日本人の目に、モナリザは日本人のように見えても決して不思議じゃない。



(monasali.jpg)



インド人の目にはインドの女性のように見えるかもしれない。。。 それも不思議じゃない。 また、カナダ人の目には、ガールフレンドが泳いだ後で休息しているように見えるかも知れないのですよ。



(monaswim.jpg)



。。。で、デンマンさんには、モナリザはどのように見えるのですか?



だから、僕の目には、モナリザは次のように見えるのですよ。



(mona110.jpg)



あらっ。。。 これってぇ、わたしじゃありませんか!?



そうですよ。。。 モナリザは見る人によって、その人の思い通りの女になるのですよ。




『モナリザの妹』より
(2015年12月19日)



つまり、「モナリザは見る人によって、その人の思い通りの女になる」という事を言うために、わざわざこの記事を書き始めたのですか?



その通りですよ。。。 だから、検索して僕の記事を読んだネット市民も、気に入った女性をモデルにしてモナリザを書くことにしたのです。


マジで。。。?


信じてください。。。 昔の人は“信じる者は救われる!”と言いましたからねぇ~。。。 だから、ジューンさんも僕の言うことを信じて救われてねぇ~。。。



(laugh16.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-08-28 04:04 | ミステリー

モナリザ描きたい (PART 2)


 


モナリザ描きたい (PART 2)



【卑弥子の独り言】



(himiko22.gif)


ですってぇ~。。。


あなたも信じることにしましたかァ~?


とにかく、モナリザの絵には謎が多いのですわァ。


では、レオナルド・ダヴィンチの生涯とモナリザの謎を日本語のクリップでご覧になってくださいませぇ~。。。



(mona120.jpg)



いかがでござ~ましたか?


ええっ。。。 あまり面白くなかったのォ~?


全く信じられないのでござ~ますか?


じゃあ、特に貴方のために取って置きのお話をしますわァ。。。


実は、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が殿方の注目を集めているのでござァ~ますわよう。


うふふふふふふふ。。。


ええっ。。。 信じられないのでござ~ますかァ?


じゃあ、ちょっと次の検索結果を見てくださいまし。。。



(gog60409a.png)


『拡大する』


『現時点での検索結果』


「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。


つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。


うふふふふふふ。。。


あなたも、ビックリするでしょう?


ジムで汗を流して “ヴィーナスのえくぼ”をゲットいたしました。。。



(buttdimp5.jpg)


スタイルもよくなったのでござ~ますわァ~。。。



(curtain5.jpg)


いかがでござ~ますか?


でも。。。、でも。。。、“天は二物を与えず”と申します。。。


これほどスタイルが良くなったというのに、あたくしは未だに独身でござ~ますのォ。。。


世の中は、なかなか思うようにゆかないものですわァ~。。。


ところで、あなたは『万夜一夜物語』を読んだことがござ~ますかァ~?


“千夜一夜物語”ではなくてぇ、“万夜一夜物語”ですわ。



(manya02.jpg)


『万夜一夜物語』


デンマンさんが書いたのでござ~ますわよう。


ええっ。。。 10,001の話が書かれているのかってぇ~。。。?


とにかく、上のリンクをクリックして読んでみてくださいませぇ~。。。


あなたも、絶対にビックリするようなお話が出てきますわァ。


『万夜一夜物語』だけでは、物足りないのでしたら、


ジューンさんが登場する面白いお話もたくさんあります。


興味のある方は、どうか次のリンクをクリックして読んでくださいましねぇ~。。。





(roten101.jpg+cleoani.gif)


『悲愴と白鳥』


『ブッダと千夜一夜物語』


『絹の道と千夜一夜物語』


『ヤノマミの乙女』


『ジャータカと今昔物語』


『白木屋お熊とセックス』


『パンツを売る乙女』


『床上手な女@マルタ島』


『宮沢りえとおばさんパンツ』


『マチュピチュとインディー・ジョーンズ』


『映画を愛する薄命の女』


『ベニスの騒動』


『アンネとハンナ』


『名器たこつぼ』


『レダの卵を探して…』



(miro0018.jpg)


『サモトラケのニケとミロのヴィーナス』


『薄命な女のパンツ』


『ロトの娘たち』


『もう一人のモナリザ』


『万夜一夜の謎』


『自由という誘惑』


『驚異の大洪水』


『おつまみミステリー』


『混浴風景を探して』


『ハレルヤ』



(sylvie122.jpg)


『マルタ島のロマンだ』


『宮沢りえ人気@海外』


『癒しを奏でるパンツ』


『マルタ島deロマン』


『生ログdeロマン散歩』


『宮沢りえ@クールジャパン』


『混浴風呂ガー』


『ウェルカムバック』


『コペンハーゲンからやって来た』


『ロシアからやって来た』


『海外美女ランキング』


『ブログを解剖する』


『スイスからトランプ見に来る』



(fan004.jpg)


『海外美女を探して』


『パンツde大晦日』


『Tバック@三賀日』


『とっちゃん坊や』


『また千夜一夜』


『初恋の思い出』


『乳房振動とブラ』


『白木屋お熊』


『肥後ズイキ@セルビア』


『紐パン熟女』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人
(godiva05.jpg)


『美尻のビーナス』


『紐パン熟女に惹かれて』


『あの二人が気になって』


『肥後ズイキ@セルビア』


『私は下着女装です』


『ドリアンを探して』


『パリの日本人』


『ペンタゴン式己を疑う』


『薄命な女と映画』


『ラーメン@ベリーズ』


『うるさい夏』


『芭蕉と英語』


『晩香坡物語 生誕150年』


ジューンさんの熟女下着
(30june.jpg)


『エレクトラde中国』


『熟女パンツ』


『ラーメン@カイロ』


『スパム@クルーズ』


『えくぼ@ヴィーナス』


『孀婦岩』


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。



(hand.gif)




(spacer.png+betty5de.gif)
(hiroy2.png+betty5d.gif)
『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』


 



(chiwawa5.gif)


こんにちは。ジューンです。


スパムメールが相変わらず多いですわよね。


あなたのメールボックスにも、


ジャンクメールがいっぱい入っているでしょう!?


スパムメールを飛ばしているのは


いったい、どういう人たちなのでしょうか?


出会い系サイトのオーナーたちが多いそうですわ。


彼らは会員を集めるためにスパムメールをばら撒きます。


そのためにメールアドレスのリストを購入しています。


では、そのようなリストを販売している人は


どうやってメールアドレスを集めているのでしょうか?


ロボット(自動巡回プログラム)によって


自動収集させているのです。


ところで、サーチエンジンの自動巡回ロボットは


毎日世界中のサイトを訪問し、


その内容をデータベースに書き込んでいます。


同じように、このメールアドレス収集巡回ロボットも、


HTMLソースを分析し、


メールアドレスらしきものをどんどん記録してゆきます。


でも、使っていないメールアドレスが


たくさんあるのですよね。


あなたの使っているメールアドレスのことを


考えてください。


あなたはメールアドレスをいくつ持っていますか?


一つだけではないでしょう?


10以上持っているのではありませんか?


多分、ほとんどのメールアドレスは使ってないでしょう?


そのために、現在実際に使っている


メールアドレスを集めるために、


怪しい人物が使用度の高いメールアドレスを


集めているのですわよ。


だから、あなたもむやみに信用できない人に対して


返信しないようにしてくださいね。


詳しいことはデンマンさんが次の記事で書いています。


『コメント魔』


(2012年4月3日)



(himiko92.jpg)


ところで、卑弥子さんが面白いサイトを


やっています。


興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして


覗いてみてください。


『あなたのための笑って幸せになれるサイト』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に


ネットサーフィンしましょう。


じゃあね。 バーィ



(juneswim.jpg)



(byebye.gif)


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by denman705 | 2017-08-28 04:03 | ミステリー


 


忘れられた歴史ロマン (PART 1 OF 3)


 



(asura2.jpg)



(5daidou.jpg)



(japan13.jpg)



(hime003.jpg)




(himiko22b.gif)


デンマンさん。。。 “忘れられた歴史ロマン”というのは、マジで忘れられてはならないような素晴らしい歴史ロマンなのでござ~ますかァ~。。。?



(kato3.gif)


そうです。。。 僕は、そう信じてます。


デンマンさん以外にも、そう信じているネット市民がいるのですかァ~?


居るのですよ。。。 仙台に住んでいる宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんという女性です。。。


あらっ。。。 デンマンさんが学生時代にナンパした女性でござ~ますかァ?


卑弥子さんは すぐにそういう淫らな発想をするのですねぇ~。。。 


あらっ。。。 いけませんでしたかしらァ~。。。 おほほほほほほ。。。


あのねぇ~、僕が青春時代を過ごした仙台では、当時 ナンパは流行(はや)らなかったのですよ。。。 そういうわけで、僕は極めて真面目で品行方正な青年だったのです。。。


ちょっと信じられませんわァ~。。。


昔の人は“信じる者は救われる!”と言ったのですよ。。。 だから、卑弥子さんも僕の言う事を信じて救われてくださいねぇ~。。。


分かりましたわァ~。。。 これ以上、このお話を続けると、せっかくデンマンさんの記事を読もうとなされたネット市民の皆様が他のブログへ飛んでしまいそうですから、本題に入ってくださいませぇ~。。。


じゃあ、さっそくIPアドレスを調べた結果を見てください。



(ip22565b.png)


『拡大する』



あらっ。。。 宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんという女性は、夢見心地を絵に描いたような おきれいな方ですわねぇ~。。。 



宮城学院女子大学に通っている日本文学科の4年生なのです。



(miyagal01.png)



(bungakuka3.jpg)



デンマンさんのブログを訪れる女性は、どうしていつも決まって おきれいな方なのでござ~ますかァ~?



あのねぇ~、そういう事を詮索すると、長い記事が、さらに長くなるので、素直に見たままを信じてくださいねぇ~。。。


分かりましたわ。。。 デンマンさんが そのようにおっしゃるのであれば、しつこいツッコミは入れないようにいたしますわァ~。。。 で、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは、どのような歴史ロマンを見つけたのでござ~ますか?


ちょっと次のリストを見てください。



(liv70626a.png)



『拡大する』


『枕詞とロマン』(PART 1)



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の6月25日の午後10時29分から翌日の午前3時20分までの約5時間の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目して欲しいのですよ。



あらっ。。。 6月25日の午後10時40分にGOOGLEで検索して『枕詞とロマン』をお読みになったのですわねぇ~。。。


そういうことです。。。


。。。で、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは どのようなキーワードを入れて検索したのでござ~ますかァ?


次のように「枕詞 ロマン」を入れて検索したのです。。。



(gog70626b.png)



『拡大する』


『枕詞とロマン』(PART 1)


『現時点での検索結果』



82,800件ヒットするのですわねぇ~。。。 宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは 赤枠で囲んだタイトルをクリックしたのですかァ?



そうです。。。


でも。。。、でも。。。、歴史ロマンと言うよりも なんだか“万葉ロマン”のようですわねぇ~。。。


卑弥子さんは、どうして歴史ロマンと言うよりも“万葉ロマン”だと思うのですか?


だってぇ~、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは“枕詞”をいれて検索しているではござ~ませんかァ!



枕詞 (まくらことば)



(aoniyoshi.jpg)


 


おもに和歌でその言葉の前に添えて・修飾する(語調を整える)一定の言葉。


五音節のものが多い。


【例】 「あまざかる」が「ひな」にかかるなど。


三省堂 『新明解国語辞典 (第二版)』より



あのねぇ~、枕詞の中には“歴史ロマン”とマジで関係のあるものがあるのですよ。。。



例えば。。。?


「つぼのいしぶみ(壷の碑)」という耳慣れない枕詞があるのですよ。。。 次の記事で取り上げたことがある。。。


『日本の真ん中の町』


 (2009年5月13日)


“壷のいしぶみ”というのは枕詞なのでござ~♪~ますか?


やだなあああぁ~。。。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授なのですよう。 古典文学の研究者として“壷のいしぶみ”が枕詞の一つだと言う事ぐらい知っていて欲しいなあああぁ~。。。


 



(saruochi2.jpg)


サルも木から落ちる


弘法も筆の誤り


上手の手からも水が漏る


 



デンマンさんがいつもおっしゃっているように完璧な人など居ないのでござ~♪~ますわよう。 あたくしは、うっかり忘れていたのですわア。



つまり、ど忘れしていたのですか?


そうでござ~♪~ますわ。おほほほほ。。。


なんだか、卑弥子さんは全く知らなかったように見えますよう。


そのような事は詮索しないでくださいなァ~。。。 でも、「つぼのいしぶみ(壷の碑)」は5音節ではござ~♪~ませんわ。 7音節ですわよう。 それで、あたくしのオツムから抜け落ちていたのですわ。 ォほほほほ。。。


うん、うん、うん。。。確かに言われてみれば、7音節で例外的ですよね。僕が高校の古典で勉強した次の歌などはあまりにも有名だけれど、5音節です。




(yae2.jpg)


あおによし奈良の都の八重桜


けふ九重ににほひぬるかも


あおによし奈良の都は咲く花の


にほふがごとく今盛りなり


両歌とも 小野老 (おののおゆ) による


出生不詳
737年没
奈良時代の歌人。
姓(かばね)は朝臣(あそみ)。


719年(養老3)正月従(じゅ)五位下、720年10月右少弁となり、729年(天平1)3月従五位上(『続日本紀』)。
このころ大宰少弐(だざいのしょうに)となって九州に赴任(『万葉集』)。


以後731年正月正五位下、733年3月正五位上、734年正月従四位下に昇進、737年6月大宰大弐在任中に没した。
777年(宝亀8)の遣唐副使小野朝臣石根(いわね)の父(『続日本紀』)。
天平(てんぴょう)初年大宰少弐時代の短歌3首が『万葉集』にみえる。


あおに‐よし 【青丹よし】 (あをにーよし)


〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。
奈良に顔料の青丹を産出したことが秘府本万葉集抄にみえるが、事実か伝説の記録か不明。
一説に、「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を馴熟(なら)すによるという。




『広辞苑』より



デンマンさんの思い違いではござ~♪~ませんか?



間違いではありませんよう。 ウィキペディアにも次のように書いてあるのですよう。



つぼのいしぶみ (壷の碑)


 


「つぼのいしぶみ」とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。


比叡山で修学した僧・顕昭(けんしょう)が鎌倉時代の初期に書いた歌学書・『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。


つぼの碑のことは多くの歌人が和歌に詠った。
藤原清輔,寂蓮法師,西行法師,慈円,源頼朝,藤原仲実,和泉式部,南部重信,高山彦九郎,岩倉具視,大町桂月らがこの碑のことを詠っている。


内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。
数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。


 


多賀城碑壺碑説


江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。
この碑は発見当初から壺の碑であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)多くの拓本もとられた。
松尾芭蕉はこの碑を「壺の碑」とし、奥の細道の旅中にここを訪れている。



(basho07.jpg)


「多賀城碑」の傍らに建つ芭蕉句碑


 


一方、菅江真澄らは文面や距離的な問題から壺の碑ではないと主張し、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。
田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、袖中抄にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述と一致しない。


多賀城碑が壺の碑と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。
多賀城碑が壺の碑となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。


 


南部壺碑説


青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
このため、明治天皇が東北地方を巡幸する際に(1876年)、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。
神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。


1949年6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。
この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。


しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。
実際に綿麻呂が書いたとすれば811年頃の出来事になる。


日本中央の碑発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



でも、ウィキペディアは素人が書いているものでござ~♪~ますわ。



素人が書いているから間違いだとは言えませんよう。僕は他でも「壷のいしぶみ」を歌枕として詠んだ歌を見たことがある。


たとえば。。。?


上の説明にも出てくる顕昭というお坊さんが詠んだ歌には次のよなものがありますよう。


おもいこそ千嶋のおくを隔てねど


えぞかよわさぬ壷のいしぶみ


これだけでござ~♪~ますか?


もっとありますよう。 誰でも知っている鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝が詠んだ歌には、次のようなものがありますよう。


みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬ


かき尽してよ壷のいしぶみ


分かりましたわ。 「壷のいしぶみ」が枕詞だという事を認めますわァ。。。 んで、その事が“歴史ロマン”と関係があるのでござ~♪~ますか?


そうですよ。。。 枕詞である「壷のいしぶみ」に隠された壮大な歴史ロマンがあるのです。 


そのような事がどこかに書かれているのでござ~♪~ますか?


いや。。。 どこにも書かれていませんよう。 これから僕が言うことは僕の歴史ロマンです。


つまり、夢のようなお話でござ~♪~ますわねぇ~。。。


いや。。。 決して夢のような話ではありません。 ある程度、根拠に基づいているのです。


分かりましたわァ。 では、その“歴史ロマン”とやらをお話くださいなァ~。。。


あのねぇ~、「壷のいしぶみ」とは、どちらの石碑なのか? まだ、論争の余地があるようなのですよう。 でもねぇ~、その論争の結果がどうであれ、多賀城で見つかった石碑に僕は壮大な歴史ロマンを見るのですよう。


その石碑には、一体どのような事が書かれているのでござ~♪~ますか?


現代語に訳すと次のように書かれているのです。




(ishibumi2.jpg)


 


多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。
常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。
下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。
靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。


多賀城は神亀元年(724年)に築城された。按察使(あぜち)兼鎮守将軍の大野東人(おおのあずまひと)が管理した。
そして現在に至る。
東海東山節度使であり、仁部省卿(じんぶしょうきょう)兼按察使・鎮守将軍である藤原朝狩(あさかり)が大改修工事を施した。


天平宝字6年(764年)12月1日



。。。んで、この石碑は何のための石碑なのでござ~♪~ますか?



あのねぇ~、藤原朝狩が多賀城を大改修した記念碑なのですよう。


つまり、藤原朝狩が自分で記念碑を建てたのでござ~♪~ますか?


そうなのです。


。。。んで、デンマンさんがおっしゃる歴史ロマンと言うのも、この人物が関係しているのでござ~♪~ますか?


その通りですよう。


藤原朝狩という人は、それ程有名な人なのでござ~♪~ますか?


いや、この人は中学や高校の歴史の教科書には、まず書かれない事が多いのだけれど、この人の父親は必ず歴史の教科書に書かれます。


誰ですの?


藤原仲麻呂ですよう。 別名、恵美押勝(えみのおしかつ)。


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-06-30 03:28 | ミステリー


 


忘れられた歴史ロマン (PART 2 OF 3)



藤原仲麻呂 (ふじわら の なかまろ)



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慶雲3年(706年)に生まれる。
天平宝字8年9月18日(764年10月21日))に殺される。
奈良時代の公卿。
父は藤原武智麻呂。恵美押勝(えみのおしかつ、藤原恵美朝臣押勝)とも呼ばれる。


「続日本紀」は仲麻呂を「率性聡敏にして、略書記にわたる」と評している。
年少にして大納言・安倍宿奈麻呂に算術を学び、すぐれた学才を示した。
大学少允に最初に任官し、天平6年(734年)、従五位下に進む。


天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。
代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった。


天平13年(741年)、民部卿。天平15年(743年)、参議となる。
天平18年(746年)、式部卿に転じる。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされる。


天平16年閏1月13日(744年3月1日)の安積親王の恭仁京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。


 


孝謙天皇の時代



(asura2.jpg)


 


天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。
次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)を兼ねた。
仲麻呂は更に中務卿と中衛大将も兼ねた。
光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。


天平勝宝7歳(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。


天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。
だが天平宝字元年(757年)3月、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。


代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王が立太子される。
5月、祖父の不比等が着手した養老律令を施行。
同月、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。


仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。
奈良麻呂は、大伴古麻呂らとともに仲麻呂を殺害し、黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、同年6月、上道斐太都らの密告により露見。
奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。


奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、
事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣豊成も左遷された。


 


淳仁天皇の時代


天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。
淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男・正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使・平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させるなど唐風政策を推進した(太政官→乾政官、太政大臣→大師など。官職の唐風改称を参照)。
仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日(10月5日)、恵美押勝の名を与えられる。


同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。
天平宝字3年(759年)、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。


軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられた。
この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。


天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。
同年、光明皇太后が逝去した。
皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。


天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。


天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。


この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。
仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。


これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言するが、この実現については研究者のあいだでも理解が分かれる。
孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)、少僧都とした。


 


藤原仲麻呂の乱


孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。
子の辛加知が国司の越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗。


仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。
敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。


仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄は死刑を免れて隠岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。
また、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、筑波山知足院中禅寺の開山者となる。


また、仲麻呂の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



仲麻呂は、あの有名な藤原不比等の孫なのですよう。



その事が歴史ロマンと関係するのでござ~♪~ますか?


大いに関係するのですよう。 実は、藤原氏には藤原家を起こした中臣鎌足から伝わっている家宝の“バイプル”があるのですよう。


どのようなものでござ~♪~ますか?まさか、藤原氏がキリスト教徒だと言うのではないでしょうね?


かつて、僕は記事に書いたので詳しい事は、すぐ下のリンクをクリックして読んでみてください。


 



(machiavelli.jpg)


■ 『マキアベリもビックリ!


藤原氏のバイブルとは?』



。。。んで、そのバイブルがどうしたのでござ~♪~ますか?



仲麻呂は非常に頭の良い人だったのですよう。当然のことだけれど、仲麻呂は藤原家に伝わる“バイブル”に従って権謀術策を使い正一位になり太政大臣になった。


でも、「藤原仲麻呂の乱」で殺されてしまいましたわ。


その通りですよう。


サルも木から落ちる


弘法も筆の誤り


上手の手からも水が漏る


まさに、完璧な人は居ないと言う事ですよう。仲麻呂は自分の術策に溺れてしまったのですよう。


それで、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?


実は、父親よりも四男の藤原朝狩の方が頭が良かったのではないか?僕は、そう思っているのですよう。


なぜ。。。?


ちょっと朝狩の略歴を読んでみてください。



藤原朝狩 (あさかり)



(asakari8.jpg)


 


別名: 恵美朝狩。
出生不詳。
天平宝字8年9月18日(764年10月21日))殺される。
藤原仲麻呂の四男。母は陽候女王(新田部親王の娘)。


天平宝字元年(757年)従五位下陸奥守となる。


天平宝字3年(759年)朝狩は正五位下へ進む。この頃陸奥鎮守将軍に任ぜられる。


天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)となり、陸奥守兼鎮守将軍であった朝狩も陸奥国での功績(荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させた)が認められ、従四位下に叙される。
仁部卿、東海道節度使となる。


天平宝字6年(762年)、仲麻呂は正一位となり位人臣を極め、同年、朝狩は兄の真先、訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子4人が公卿に列する異例の事態になる。


しかし、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛し、仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる。


天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚。
孝謙上皇側に先手を打たれて仲麻呂一族は平城京を脱出。
朝狩もこれに従う。


仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされ阻まれた。
仲麻呂一族は八男の辛加知が国司の越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。
仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗するが敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された。(藤原仲麻呂の乱)




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



陸奥国での功績に注目してください。



藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですわねぇ~。


そうなのです。 つまり、僕が言おうとしているのは、朝狩の方が父親の仲麻呂よりも“バイブル”に忠実に術策を使い、戦わずにして荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですよう。その手腕はすごいと思いますよう。


それ程、荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良くする事は大変な事だったのでござ~♪~ますか?


実は、蝦夷(えみし)は、もともと平和を愛する人たちだったのですよう。この人たちの平和愛好精神について、僕は記事を書きました。 読んでみてください。



(aterui6.gif)


『なぜ、蝦夷という名前なの?』


『平和を愛したアイヌ人』



でも、どうして征伐しなければならなかったのでござ~♪~ますか?



一部の渡来人の身勝手から、そうしたのです。


その渡来人って。。。?


その渡来人の血筋を引き継いでいるのが藤原鎌足や藤原不比等ですよう。


でも、藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良く出来たのですわね。 どうしてでござ~♪~ますか?


もともと、争いが嫌いな性格だったのでしょうね。 父親と違い、威圧的、攻撃的な性格ではなかったのですよう。 とにかく、その功績によって正五位下の藤原朝狩は従四位下に叙せられたのですよう。 つまり、2階級特進したのですよう。


でも、藤原朝狩のした事は、それ程特筆するような事だったのでござ~♪~ましょうか?


そうなのです。 藤原朝狩が造営した雄勝城〔おかちのき〕の略歴を見ると良く分かりますよ。



雄勝城〔おかちのき〕



(okachinoki.png)


 


現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。
記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」である。
現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみである。


現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。
今後、これらの雄勝村周辺遺跡の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待されている。


 


略歴


天平宝字3年(759年)
雄勝城の造営が行われた。


所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。
また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)。


天平宝字3年(759年)9月27日
坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた。
また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した。


天平宝字4年(760年)1月4日
孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた。
このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった。


天平宝字4年(760年)3月10日
没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした。


天平神護元年(767年)11月8日
雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。


宝亀7年(776年)2月6日
陸奥国から20,000の軍を発して山道・海道の賊を討伐するよう言上があったため、出羽国に4,000の軍を発して雄勝道から陸奥の西辺を討伐するよう命じた。


宝亀11年(780年)
賊に襲われ、雄勝・平鹿の2郡の百姓は業を失った。
散り散りになった民衆を集め、郡府を再建し口分田を支給する。


延暦20年(801年)
雄勝城の鎮守府兵士の兵糧として、毎年越後国と佐渡国から大量の米と塩が輸送される。


元慶2年(878年)
雄勝城は10道が交差する要衝の地であり、出羽国の要害となっている。


元慶5年(881年)2月26日
雄勝郡、平鹿郡、山本郡の百姓の調庸が再開されることとなる。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



藤原朝狩が雄勝城〔おかちのき〕を造営してから、父親が原因で起こった「藤原仲麻呂の乱」で朝狩が殺されるまで、雄勝城周辺の情勢は平穏だった。しかし、後任者が圧制をやり始めたのが分かる。



どうして分かるのでござ~♪~ますか?


776年と780年に「賊に襲われた」と書いてあるけれど、周辺の荒蝦夷が圧政に耐えかねて、また暴れだしたのですよう。


分かりましたわ。でも、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?


朝狩は多賀城の大改修も任されたのだけれど、その時建てた石碑の次の文章をもう一度読んでみてください。




(ishibumi2.jpg)


 


多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。


蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。


常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。


下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。


靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。



これは藤原朝狩が書かせたものですよう。



上の靺鞨国(まっかつのくに)とは、一体どこにある国なのでござ~♪~ますか?


ウィキペディアの説明を読んでみてください。



靺鞨(まっかつ)



(japan13.jpg)


靺鞨とは、中国の隋、唐時代、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられる。
以下に記すように単一民族集団ではない。


靺鞨の中では、次の7部が特に強大であった。
現在の地理との同定は諸説あり、下記の例はあくまで一説である。


1) 粟末部 - 現在の吉林市
2) 白山部 - 粟末部の東南、現在の吉林省敦化、延辺
3) 伯咄部 - 粟末部の北、現在の拉林河流域
4) 安車骨部 - 伯咄部の東、現在の依蘭県以東
5) 拂捏部 - 安車骨部の東
6) 号室部 - 拂捏部の東、現在の綏芬河流域
7) 黒水部 - 安車骨部の東北、現在の同江から伯力までの黒竜江両岸


上記7部の外、思慕、郡利、窟説、莫曳皆、虞婁、越喜、鉄利のような小部族が、外満州(現在の黒龍江以北とロシア沿海地方)に居住していた。


総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)と、後に遼国、金国、清国を建国した女真族の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)に二分される




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



つまり、靺鞨(まっかつ)部族たちの国という意味ですよう。この場合、粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)が立ち上げた渤海という国と、その北の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)部族たちが立ち上げた国ですよう。この国は「黒水靺鞨」と呼ばれていたようです。



藤原朝狩は、この国の人たちと交易するつもりだったのでござ~♪~ますか?


まず間違いなく、そのつもりだったろうと思います。荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたやり方を見ると、容易に彼のビジョンが見えてきますよう。


そうでしょうか?


渤海(ぼっかい)【698年建国ー926年滅亡】は、当時、日本と交流するようになっていた。


どうしてでござ~♪~ますか?


7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化した。それで日本は渤海が興(おこ)る前の高句麗と外交関係を強化したのですよう。


同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのでござ~♪~ますか?


そうです。その当時、高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありました。日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいた。阿倍比羅夫(ひらふ)の遠征記録を見ると粛慎(みしはせ)が出てきます。当時の大和朝廷が、粛慎と高句麗へ接近を図ろうとしたのですよう。そう言う訳で、高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。


日本は高句麗とお友達になった訳でござ~♪~ますわね。


そうです。おそらく卑弥子さんもそうだと思うけれど、学校の日本史では、その当時の東北より北の地域の活動は勉強しなかったと思うのですよう。


そうですわ。アイヌ人を日本人が征伐に行ったぐらいの事しか知りませんわ。


そうでしょう!でも、実は、上の地図を見ても分かるように、東北以北でも活発に活動している人々は居たのですよう。例えば、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)と呼ばれる人たちが住んでいた。この人たちは大和朝廷と同じように唐の貞観14年(舒明12年、640年)に長安に朝貢使節を派遣しているのですよう。19年後の斉明5年(659年)には、蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の使節が大和朝廷(倭国)の遣唐使に随行して長安を訪れています。


そのような事は日本史で勉強しませんでしたわ。


当然の事だけれど、渤海は「蝦夷国(かいのくに)」とも交流を持っていた。


日本海をいろいろな国の船が行き来したのでござ~♪~ますわね。


そうですよう。だから、藤原朝狩が生きていたら、「蝦夷国(かいのくに)」、「流鬼(りゅうき)国」、「渤海」、「黒水靺鞨」と活発に交流したと思うのですよう。 そのために朝狩は父親の命令で東北地方に送り込まれたのだと僕は思っているのですよう。


つまり、東日本連合王国の構想を朝狩が抱いていたとデンマンさんは思っているのですか?


そうですよう。 それが僕の言いたかった歴史ロマンですよう。 うししししし。。。


宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも この歴史ロマンに興味を持ったのでござ~ますか?


もちろんですよ。。。




 


デンマンさんの


“歴史ロマン”は


とっても面白いと


思いましたわ。。。


 



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宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんも こうして「面白い」と言ってくれたのですよ。。。 だから、卑弥子さんも 信じてねぇ~。。。



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 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-06-30 03:27 | ミステリー


 


忘れられた歴史ロマン (PART 3 OF 3)



【卑弥子の独り言】



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ですってぇ~。。。


あなたは、どう思いますか?


藤原朝狩が生きていたら 壮大な東日本連合王国を創りあげていたと思いますかァ?


確かに、その可能性はあったかもしれませんわねぇ~。。。


でも、宮田 由佳里(みやた ゆかり)さんは マジで面白いと思ったのでしょうかァ?


とにかく、古代にはあなたの知らない雄大な、あるいはミステリアスな面白いお話があるのですわよう。。。


あなたのために平安史、古代史の興味深い記事を用意しましたわァ。


ぜひ お読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は


同腹の兄弟ではなかった。
 


天智天皇は暗殺された 


定慧出生の秘密 


藤原鎌足と長男・定慧 


渡来人とアイヌ人の連合王国


なぜ、蝦夷という名前なの?


平和を愛したアイヌ人


藤原鎌足と六韜


古事記より古い書物が


どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は


日本人でないの?


マキアベリもビックリ、


藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。



(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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(sayuri5.gif)


ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。


卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)


『下衆のかんぐり』


『桓武天皇のママがネットで』


『ござが天皇とGOOGLE』


『エロ 建礼門院』


『一敗が三人に!』


『行田の黒い霧をはらう』


『ペルシャ人が飛鳥に』


『小柴垣草子』


『後白河上皇ダントツ』


『ブスと美人』


『エロい話が好き?』


『死んでも生きてる』


『失意の太田将宏』



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『オルフェと聖徳太子』


『源氏物語とおばさんパンツ』


『霊仙はなぜ毒殺されたの?』


『紫式部が地獄へ』


『破戒僧円載』


『アショーカ王の愛と苦悩』


『どら平太の世界』


『三四郎とデンマンさん』


『ヒトラーの姪』


『ゴヤと三島由紀夫』


『仏陀とキリストと娼婦』



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『ズロースと戦争』


『伊藤若冲ブーム?』


『ブッダと物理学』


『加藤清正ブーム?』


『愛憎と三輪山』


『松原智恵子 お尻ペンペン』


『坂本龍馬は流れ者か?』


『野ざらし』


『紫式部堕獄説』


『日本最古のポルノ?』


『源氏物語の性描写』


『寅さんの本棚と急行まつしま』


『ヒトラーは草食系?』


『ブッダとキリストと娼婦』


『顔文字とオナラ』



(hama10.jpg)


『宝暦の恨みを明治維新で』


『デウキと紅葉@行田』


『薄い陰毛と紅のボートピープル』


『江戸の閨房術』


『ずるがしこい現代人』


『春画@源氏物語』


『千早振る』


『あれっ、松本清張』


『キスと源信』


『伎楽は呉から…?』


『紺瑠璃杯に魅せられて』


『神聖娼婦 マリア』


『安徳帝は生きていた』


『白石川の桜』


『ブログ村のマリア様』


『萌える済子女王』


『ピンク桃色@徒然』


『富沢金山の桜』


『ピンク桃色村』


『紫式部@徒然』


『絵里香@ペルー』


『ペルシャ人の楊貴妃』


『ん?佐伯今毛人』


『文学と歴史とウソ』


『百人一首ミステリー』


『芭蕉と遊女再び』


『映画とロマン@仙台』


『源氏物语中的性描写』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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by denman705 | 2017-06-30 03:25 | ミステリー


 


百人一首ミステリー(PART 1)


 



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デンマンさん。。。 百人一首にどのようなミステリーがあるのでござ~ますかァ?



卑弥子さんは これまでに百人一首のミステリーについて質問を受けたことがないのですかァ~。。。


あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しておりますので、質問といえば当然、源氏物語に集中しておりますわァ~。。。


あれっ。。。 「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授とは思えないような軽率なことを言うのですねぇ~。。。


あらっ。。。 あたくしが、何か可笑しなことでも のたまいましたかしらァ~。。。 おほほほほ。。。


卑弥子さん。。。 うっかりだとしても、忘れてもらっては困りますよう。。。 「百人一首」に『源氏物語』の作者の紫式部の次の歌が57番の歌として入っているではありませんかァ!



57. 紫式部


 



(seisho05.gif)


 


めぐり逢(あ)ひて


見(み)しやそれとも


わかぬ間(ま)に


雲(くも)がくれにし


夜半(よは)の月かな


 




あらっ。。。 うっかりしていましたわァ~。。。 平成の紫式部と言われる あたくしとしたことが、マジでぇど忘れしていましたわァ。。。 そうです。。。 そうですとも、平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎えるのでござ~ますわァ~。。。 文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いたのでしたァ。。。 それゆえに『百人一首』にも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っているのですわァ~。。。



そうですよ。。。 だからこそ、わざわざ百人一首ミステリーというタイトルを掲げて卑弥子さんに登場してもらったのですよゥ。。。 卑弥子さんも、これまでに百人一首ミステリーという言葉を聞いたことがあるでしょう!?


いいえ。。。 初耳ですわァ~。。。


マジで。。。?


だってぇ~、あたくしが教えている腐女子たちは『源氏物語』はもとより、『百人一首』についても、まず質問するということがないのですわよう。。。


まさかァ~。。。?


本当でござ~♪~ますわァ~。。。


それは、きっと卑弥子さんの講義が面白くないからですよ!。。。 だから、質問する腐女子学生がいないのですよう! 講義ノートに書いてあることを、卑弥子さんは毎年、毎年、読み上げているだけなんでしょう!? 僕が学生時代にも、そういう無気力な教授がいたものですよ。。。


デンマンさん! んもおおおォ~。。。! 失礼な事を言わないでくださいましなァ~。。。! あたくしの『源氏物語』の講義は“平成の紫式部が送る白熱のラブラブ源氏物語”として学内でもチョー人気がある講義になっておりますわァ~。。。


だったら、質問の一つや二つは出てくるでしょう!?


もちろん、出てきますわよう。。。 でも、その質問は“百人一首”とは全く関係ない質問なのですわァ。。。


例えば、どういう質問がでるのですかァ?


そうですわねぇ~。。。 あたくしの印象に残っているのは、「紫式部が生きていた頃はディ~プキスがあったのか?」とか、「避妊は、どのようにしていたのか?」とか、「もし、避妊がうまくゆかなくて、おろす場合には、産婆さんがおろしてくれたのか?」とか。。。 たいてい、そういう質問でござ~ますわァ~。。。


それは、ちっとも文学とは関係ない質問じゃありませんかァ~!


だから、『百人一首』のことで質問する腐女子など、これまでに一人もいませんでしたわァ。。。


そういうわけで、卑弥子さんも『百人一首』に紫式部の歌が出てくるのを忘れていたのですかァ~?


そうでござ~ますわァ。。。 おほほほほほほ。。。


あのねぇ~、それでは、未来のお母さんになる腐女子から生まれる子供のことが心配ですよう! 卑弥子さんは、日本の未来のことを考えて、もう少し腐女子たちを教養のある、品のある女性に育て上げてくださいよう!


分かりましたわ。。。 現代の腐女子のことで議論していると日が暮れてしまいますので、本題に入ってくださいなァ~。。。 そもそも、百人一首ミステリーってぇ、どういうことでござ~ますかァ?


ちょっと次の画像を見てください。。。



(ogura01.jpg)



あらっ。。。 これは、もしかして平安時代の田園風景を描いたものでござ~ますかァ?



さすがですねぇ~。。。 さすが京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているだけのことはありますよう! あのねぇ~、実は 上の絵は「百人一首」そのものなのですよ。。。


上の絵は「百人一首」そのものォ~。。。?


そうですよ。。。


でも。。。、でも。。。、どこにも歌が書いてありませんわァ~。。。


だから、それが百人一首ミステリーなのですよう!


どういうことですか? デンマンさんが言おうとしていることが全く理解できませんわァ~。。。


あのねぇ~、上の絵は次のように『百人一首』の歌を縦10枚、横10枚にきれいに並べると浮き上がってくる絵なのです。。。



(ogura02.jpg)


『拡大する』



マジで。。。? 『百人一首』の歌を 上のように縦10枚、横10枚 きれいに並べると浮き上がってくる絵があるのでござ~ますかァ?



あるのです。。。 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義してい橘卑弥子・准教授を わざわざ呼び出してまで僕がウソをつくと思いますかァ~?


でも。。。、でも。。。、そのようなお話を あたくしはこれまでに聞いたことがござ~ませんわァ~。


それは、“平成の紫式部”と言われている卑弥子さんの勉強不足ですよ。。。 『ウィキペディア』にも ちゃんと書かれている。。。



歌織物説



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歌織物説とは、百人一首の歌が 隣りに来る歌どうしが上下左右に何らかの共通語をふくみ合う形で結び合わされ、タテ10首、ヨコ10首の枠内に並べることが出来るという、百人一首研究家・林直道の説


並べられた100首の歌と歌をつなぐ合せ言葉を絵におきかえると、美しい景色が浮きあがることから「歌織物」説という。


■百人一首には歌の名人・定家が何万何千という歌の中からよりすぐった百の歌だというわりには平凡な歌が多いことや、同じような言葉を用いたの歌が多いことなどから、ある意図された並びが存在するのではないかと言われていた。


■「歌織物説」とは、和歌の世界でさかんに行なわれていた言葉遊びを、百人一首の中に技術的なシステムとして組み込もうという考えのもとに歌を撰び出し、隣りに来る歌どうしが上下左右に何らかの共通語をふくみ合う形で結び合わされ、タテ10首、ヨコ10首の枠内に並べることが出来るというものである。


■そして、並べられた100首の歌と歌をつなぐ合せ言葉(山、川、紅葉、雲、花、桜、菊、鳥、鹿、瀬、滝、松、等々)を絵におきかえていくと、掛軸のような山紫水明の美しい景色が浮きあがることから「歌織物」と名付けられた。


 


歌織物の構図


■上記のようにタテ10首、ヨコ10首に並べたところ、四隅の角に位置する4つの歌が、右下に定家の歌、左下には後鳥羽院、右上には順徳院、左上には式子内親王となっており、その配置は「曼荼羅の四天王」を連想させる。


■この、謎をはらんだ歌集の意味をときほぐす重要な鍵は、定家の自撰歌にあると筆者は考えており、それは「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」である。


■ここで「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずる。この歌は、誰か帰り来ぬ人に向って、定家が悶々たる思慕の情を述べるのが百人一首の基本点だったという推測を成り立たせる。


■つまり、鎌倉幕府と戦って敗れ、隠岐と佐渡に幽閉され、帰り来ることを許されぬ二人の帝と、薨去してこの世には二度と帰り来ぬ薄幸の美女・式子内親王という、三人の「来ぬ人」に向って「あなたをお待ちして泣きながら身もこがれる思いだ」と訴える構図なのではないかと考える。




出典: 「歌織物説」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



あらっ。。。 このような事をマジで言い出した人が居るのでござ~ますかァ?



そうなのです。。。 実は、僕はバンクーバー図書館で本棚の前で どれを読もうかと探していたら、たまたま百人一首研究家・林直道さんの本を見つけたのですよ。。。


あらっ。。。 偶然ですわねぇ~。。。 それで、デンマンさんは、「そのようなことはないだろう!? ウソだろう?」と思いながら読んでみたのですかァ?


その通りですよ。。。 すると、次のようなことが書いてあった。



定家の懊悩とその解決



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百人一首が後鳥羽院・順徳院・式子内親王らにたいする焦がれる思いを表わしたものだ、という主張にたいしては、式子・順徳についてはともかく後鳥羽院にかんするかぎり、とても賛成できないという意見が寄せられている。
その反対意見によれば、定家と後鳥羽院とはたがいに反目しあい憎みあっていた仲であって、その定家が後鳥羽院追慕、後鳥羽院讃歌の歌集をつくったなどというのは、あまりにも無理な解釈だというのである。


たしかに、表面的には後鳥羽院と定家とは仲たがいしたまま生を終えた形となっている。
後鳥羽院が承久の乱に敗れ隠岐に島流しになったあと、定家のとった態度は、じつに冷淡そのものであった。
家隆をはじめ多くの公卿たちが、隠岐へ見舞いの手紙を出し、慰めの品物を贈ったのに、定家は一通の手紙も一片の品物も贈らなかった。


後鳥羽院のほうでも定家の冷酷さに我慢ならず、隠岐で書いた歌論書『後鳥羽院御口伝』のなかで、定家の歌には「心がない」とこきおろしている。



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定家がこうした冷酷な態度をとったのには公私両面での理由がある。


第一に、定家は、承久の乱のおこる直前に歌会で発表した歌が後鳥羽院の怒りにふれ、「勅勘(ちょくかん)」をうけ、以後、自宅で謹慎せよ、公の席へ出ること罷(まか)りならぬという処罰をうけた。
ところがその処罰令を出した後鳥羽院自身が鎌倉幕府によって島流しにされ、隠岐に幽閉されてしまったから、定家は後鳥羽院から勅勘を解除されることなく、形の上ではずっと処分をいけつづけているという関係にあった。


第二に、クソ真面目な定家は、自由奔放な後鳥羽院と性格が合わなかったうえに、わが子の為家が後鳥羽院によって蹴まりの遊び相手として独占され、家業である歌の勉強を妨げられたこと、また後鳥羽院が定家の才能と律儀な仕事ぶりに目をつけ、新古今集の編纂などで存分に利用しておきながら、身分の昇進については配慮せず、いつまでも少将という低い身分に据(す)えおいたこと、などの点で恨みを抱いていた。


こうしたことから、承久の乱ののち、定家が公私両面で後鳥羽院とのつながりを断ち、別世界の人間として疎遠な関係に立とうとしたのは、ある意味で当然の成りゆきであった。


 (中略)


じつのところ、定家としては、後鳥羽院が勢力をもり返して幕府をたおし、ふたたび権力の座につくことをもっとも強く恐れていたのかもしれない。
そのときは彼自身、後鳥羽院がたから、手ひどい報復処罰をうけることが予想されたからである。


このようにみてゆくと、定家が(百人一首を作ることによって)後鳥羽院讃歌の歌織物をつくったなどという主張は、ますますもって不可解なものに思われるであろう。



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だが、じつは、晩年にいたって定家はある事件にまきこまれ、そのことによって大きな心理的軌道修正をよぎなくされたのである。
寛喜2年(1230年)、定家は、後堀河天皇から、新しい勅撰集を編纂せよという内意を受けた。


 (中略)


後鳥羽院・順徳院の歌をどう扱えばよいのか。
もしも入れるとすれば、(略) 鎌倉幕府から (略) とがめをうけるだろう。 (略)
「たとえ鎌倉に忌み嫌われている人物」だとはいえ、あえてその歌を勅撰集に撰入したというところに、定家の歌人としての誇りと自負と意地があったわけである。


ところが、定家苦心のこの草稿は、案の定、責任者である政治的実力者、関白・藤原道家からクレームをつけられた。
鎌倉幕府の怒りにふれることをおそれた道家は、草稿中の後鳥羽院・順徳院の歌 (略) をのこらず削除せよと指示したのである。


 (中略)


そこで定家は、鎌倉幕府にたいする反逆の意味を持った作品をつくらねば、気がおさまらなくなり、(百人一首をつくり) こういう報復をすることで、歌人としての失われた誇りをとりもどそうとしたのではなかろうか。 (略)
それよりももっと強烈にかれの心臓を握りつぶしたのは、後鳥羽院の祟(たた)りをうけるのではないかという恐怖感であった。



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承久の乱以後、かれのとりつづけた冷酷な態度が、院の恨みを買ってきたことは自分にも痛いほどわかっている。
そこへさらに、今回、たとえ上層部から命じられたとはいえ、後鳥羽院・順徳院の歌 を勅撰集から切り削る直接の下手人(げしゅにん)となった。
隠岐の怨霊(おんりょう)の祟りをこうむるのはもはや必定(ひつじょう)ではないか。
このままでは自分は未来永劫、地獄に堕(お)ちてしまう。


そこで定家は、院の祟りを免れるために唯一の手段として、院を讃美し、院の生霊(いきりょう)を慰める内容を盛り込んだ、何か奇想天外な巨大作品をつくり上げようと異常なまでの熱意に燃えたのではなかろうか。


このようにして、歌人定家は、勅撰集の独力撰進という、歌人として上りつめた栄光の頂点において、(略)挫折からの活路を求めて、百人一首歌織物という空前の大傑作をつくり上げるにいたったのである。



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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




165-172 ページ
『百人一首の世界』 新装版
著者: 林 直道
2003年12月17日 第1刷発行
発行所: 株式会社 青木書店



つまり、デンマンさんは上の御本を読んで 説得されてしまわれたのでござ~ますかァ?



そうです。。。 いけませんかァ~?


デンマンさんが素直に説得されるなんてぇ、珍しいことですわねぇ~。。。


あのねぇ~、もう一度 紫式部の歌を読んでみてください。。。



57. 紫式部


 



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めぐり逢(あ)ひて


見(み)しやそれとも


わかぬ間(ま)に


雲(くも)がくれにし


夜半(よは)の月かな


 




この上の歌を読んで、卑弥子さんは何か感動するものがありましたかァ~?



特に感動しませんでしたけれど、『百人一首』の中に選ばれたほどの歌なのですから、良い歌にきまってますわァ~。。。


だから、そういう考え方が間違ってるのですよ。。。 僕は、上の歌を読んで、特に素晴らしい歌だとは思えなかった。。。 紫式部には、もっと感動を呼ぶような歌があるはずですよ。。。


でも。。。、でも。。。、とにかく、『百人一首』の中に選ばれたほどの歌なのですから、良い歌なのでござ~ますわァ。


藤原定家は素晴らしい歌だから上の歌を選んだわけじゃないのですよ。。。 歌織物を作るために藤原定家の都合のよい歌を選んだだけなのです。。。 そうしない限り歌織物を作ることができない!


でも。。。、でも。。。、“歌織物説”というのは、百人一首研究家・林直道さんの言い出した仮説ですわァ~。。。


僕は、それは真実だと信じることができる。。。


その根拠は。。。?


藤原定家は どうしても歌織物を作らねばなかなかった! なぜなら、定家は、院の祟りを免れるために唯一の手段として、院を讃美し、院の生霊(いきりょう)を慰める内容を盛り込んだ、何か奇想天外な巨大作品をつくり上げねばならなかったのですよ。。。


そのような事が、その時代、あるいは、それ以前にもあったのでござ~ますかァ?


あったのです。。。 『百人一首』の2番の歌として入っている 持統天皇が詠んだ次の有名な歌を読んでみてください。




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春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の


 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山



この歌は、たぶん 『百人一首に』入っているから有名になったのだと思うのだけれど、決して感動を誘うような歌ではないですよ。。。 歌そのものの言葉を解釈すれば、「春が過ぎて夏がやってきた。 香具山に白い衣が干してある」。。。 ただ、これだけのことを言っているに過ぎない! 小学生でも詠めるような他愛無い歌ですよ。。。



そうでしょうか?


卑弥子さんは、マジで素晴らしい歌だと思いますかァ~?


だってぇ~、『百人一首』に選ばれたのだから、素晴らしい歌に違いないと思いますわ。。。


だから、それが先入観なのですよ。。。 藤原定家は確かに歴史的に有名な歌人だけれど、持統天皇の上の歌が素晴らしいから選んだわけじゃない! 歌織物を作るのに都合がいいか定家が選んだだけなのですよ。。。


だから、それは百人一首研究家・林直道さんの言い出した仮説にすぎないのですわァ~。。。


地動説も初めは仮説だったのですよ。。。 ガリレオが生きて居た時代には、99%の人々が天動説を信じていた。。。 でも、現代人の99.9%の人々が地動説を信じている!


つまり、デンマンさんにとっても『歌織物説』は真実だと信じることができるのですか?


そうです。。。


その根拠は。。。?


あのねぇ~、持統天皇の上の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないんですよ。。。 これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、僕は次のようにしか解釈できません。



春が過ぎて夏が来たようだ。


天の香具山に美しく真っ白な衣が


干してあるなあぁ~


でも、私の心はあの山の裏にある


磐余(いわれ)の池を見ているのです。



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大津皇子が自害する前に池の端で


辞世の歌を読んだという。


自害の後で、皇子の妻であり、


私の腹違いの妹でもある山辺皇女が


髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、


共に殉死したという。


痛ましいには違いない。


しかし私は、ああせねばならなかったのです。


怨霊になって私を憎んで


いるのかもしれないけれど、


私には他にとるべき道はなかったのです。


どうか、心安らかに眠っていて欲しい。



上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。



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この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。 僕もそう考えています。



つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけでござ~ますかァ?


そうです。。。 この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。。。 “怨霊の崇り”ということが現在でいえば“北朝鮮からミサイルの攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。


それで、持統天皇は天からミサイルを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのでござ~ますかァ?


そうですよ。。。 それが僕の解釈です。 うへへへへ。。。。


でも。。。、でも。。。、そのような事を言っている人は デンマンさん以外におりませんわァ~。。。


あのねぇ~、地動説も初めは一人が勇気を持って世間に広めようとしたのですよ。。。 そのつもりで、僕も記事を書いたので、卑弥子さんも読んでみてくださいねぇ~。。。



では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?


天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。


この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?


草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。


それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。


 



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『性と愛の影に隠れて -


 万葉集の中の政治批判』


 


つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。


ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。


つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。


この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。


しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。


天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。


その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。


 


なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?




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現身(うつそみ)の 


人なる吾(われ)や 


明日よりは 


二上山を 


弟背(いろせ)とわが見む 


(巻2-165)



この世に生き残った私は、明日からは、


弟が葬られている二上山を弟と思い見て、


慕い偲ぶことにしよう。



上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。


死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。


つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。

僕はそう信じることができます。


大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。


彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。


しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。


平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。



大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、


大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。


つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。


そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。


持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。


しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。



怨霊信仰



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非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。


原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。


『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。


しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。


その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典


持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。


つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。


では、恒例になりましたが、司馬遼太郎さんの言葉を書きますね。


生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。


 



(shiba3.gif)



“作品は作者だけのものと


違うんやでぇ~。。。


作者が50%で読者が50%。。。


そうして出来上がるモンが


作品なんやでぇ~”


名言だと思いますねぇ~~。


あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!


大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。


あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。


大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。 へへへへ。。。。


大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。


では。。。




『愛と怨霊』より
(2006年7月5日)



でも。。。、でも。。。、このお話が“地動説”のように、世間に広まるでしょうかァ?



“歌織物説”と一緒に世の中に広まりますよ。。。 考えても見てください。。。 『百人一首』の中に取り上げられた持統天皇の歌は 表面的にはつまらない歌ですよ。。。


でも、やがて 深く理解する人が現れるとデンマンさんは信じているのござ~ますかァ?


そうです。。。 それが百人一首のミステリーです。。。



(laugh16.gif)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-06-05 04:09 | ミステリー


 


百人一首ミステリー(PART 2)



【卑弥子の独り言】



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ですってぇ~。。。


あなたはデンマンさんの言うことを信じることができますかァ~?


考えてみると、確かに持統天皇の歌は表面的にはつまらない歌ですよねぇ~。。。


 



(shiba3.gif)



“作品は作者だけのものと


違うんやでぇ~。。。


作者が50%で読者が50%。。。


そうして出来上がるモンが


作品なんやでぇ~”


生前、司馬遼太郎さんは、上のように言ったそうですけれど、


確かに、一理あるようでござ~ますわァ。


ところで、あたくしには紫式部の血も流れているのでござ~ますわァ。。。


信じられないでしょう?


では、あたくしの次のお話を読んでくださいませぇ~。。。



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『卑弥子の源氏物語』


どうですか? あたくしが“平成の紫式部”だと納得がゆきましたかァ~?


ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?


でもねぇ~、あたくしは 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますゥ。


だけど、どういうわけか結婚相手が 現れないのですわよゥ。


あたくしは別に高望みはしていないのでござ~ますう。


“寅さん”のような人でもいいのです。。。


ついでだから、寅さんの映画でも見てください。



(tora019.jpg)



ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代の話も心にしみます。


たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。


そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。


ぜひ 覗いてみてくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は


同腹の兄弟ではなかった。
 


天智天皇は暗殺された 


定慧出生の秘密 


藤原鎌足と長男・定慧 


渡来人とアイヌ人の連合王国


なぜ、蝦夷という名前なの?


平和を愛したアイヌ人


藤原鎌足と六韜


古事記より古い書物が


どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は


日本人でないの?


マキアベリもビックリ、


藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またねぇ~。。。



(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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(sayuri5.gif)


ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。


卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)


『下衆のかんぐり』


『桓武天皇のママがネットで』


『ござが天皇とGOOGLE』


『エロ 建礼門院』


『一敗が三人に!』


『行田の黒い霧をはらう』


『ペルシャ人が飛鳥に』


『小柴垣草子』


『後白河上皇ダントツ』


『ブスと美人』


『エロい話が好き?』


『死んでも生きてる』


『失意の太田将宏』



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『オルフェと聖徳太子』


『源氏物語とおばさんパンツ』


『霊仙はなぜ毒殺されたの?』


『紫式部が地獄へ』


『破戒僧円載』


『アショーカ王の愛と苦悩』


『どら平太の世界』


『三四郎とデンマンさん』


『ヒトラーの姪』


『ゴヤと三島由紀夫』


『仏陀とキリストと娼婦』



(zurose2.jpg)


『ズロースと戦争』


『伊藤若冲ブーム?』


『ブッダと物理学』


『加藤清正ブーム?』


『愛憎と三輪山』


『松原智恵子 お尻ペンペン』


『坂本龍馬は流れ者か?』


『野ざらし』


『紫式部堕獄説』


『日本最古のポルノ?』


『源氏物語の性描写』


『寅さんの本棚と急行まつしま』


『ヒトラーは草食系?』


『ブッダとキリストと娼婦』


『顔文字とオナラ』



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『宝暦の恨みを明治維新で』


『デウキと紅葉@行田』


『薄い陰毛と紅のボートピープル』


『江戸の閨房術』


『ずるがしこい現代人』


『春画@源氏物語』


『千早振る』


『あれっ、松本清張』


『キスと源信』


『伎楽は呉から…?』


『紺瑠璃杯に魅せられて』


『神聖娼婦 マリア』


『安徳帝は生きていた』


『白石川の桜』


『ブログ村のマリア様』


『萌える済子女王』


『ピンク桃色@徒然』


『富沢金山の桜』


『ピンク桃色村』


『紫式部@徒然』


『絵里香@ペルー』


『ペルシャ人の楊貴妃』


『ん?佐伯今毛人』


『文学と歴史とウソ』


軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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by denman705 | 2017-06-05 04:08 | ミステリー

行田遠野物語 (PART 1)


 


行田遠野物語 (PART 1)


 



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百六十


 


オマクは身近に起きることであって、特別なことではない。
佐々木喜善(きぜん)君が幼少の頃。
土淵村の光岸寺という寺が火災に遭って焼け落ちた。
そこで寺を建て直すことにになり、土淵村字山口に住む、慶次郎という大工が棟梁となって、新築工事が始まった。


ある日。午休みの時間。
四、五十人からの大工が休憩を取っていた。


そこに、十六、七の美しい娘が潜り戸を抜けて入ってきた。
居合わせた大工たちは一斉に娘を見た。


それから娘が何処へ行ったのか、どういう訳か誰にもわからない。
だが、入って来たところは全員がはっきりと見た。


頭(かしら)の慶次郎は、
「今のは俺の家の隣の、小松の家の娘だ。 ずうと傷風(しょうかん)の病で苦しんでいるから、こんな処に来られる訳がない。 それではとうとう死ぬのか」
と言った。


娘は翌日死んだ。


その場に居合わせた大工の一人、古屋敷徳平(ふるやしき とくへい)という人の話である。
古屋敷氏もその娘の姿を見ている。


 



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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




14-15ページ 『遠野物語拾遺 retold』
著者: 京極夏彦 柳田國男
2014年 第1刷発行
発行所: 株式会社 KADOKAWA




デンマンさん。。。 “行田遠野物語”というのは行田物語と遠野物語を合わせたお話ですか?



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だいたい、そういう話です。。。 真由美ちゃんは、『遠野物語』というのを読んだことがある?


ありませんわァ~。。。 わたしはあまり本を読まない人なのですゥ。。。うふふふふふふ。。。


あのねぇ~、『遠野物語』というのは けっこう有名な物語なのですよ。。。


もしかして、『源氏物語』といい勝負ですかァ~?


いや。。。 『源氏物語』と比べることは出来ないでしょう! 全く違う種類の物語ですよ。。。 クジラとモンシロチョウを比べるようなものですよ。。。



遠野物語



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『遠野物語』(とおのものがたり)とは、柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。


遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記、編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)『石神問答』(1910年)とならぶ柳田國男の初期三部作の一作。
日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。


遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指すが、広義には上閉伊郡宮守村、釜石市橋野町、上閉伊郡大槌町、下閉伊郡川井村などの隣接地域も含まれ、その地で起きたとされる出来事も取り上げられている。


内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡る。
作成過程で3つの原稿が存在し、佐々木の話を都度書き記すかたちで作られた草稿にあたる毛筆本、実際に遠野に赴き、自ら得た見聞を加えて人名、地名、数字などの事実関係を補完して作られた喜代司書本。
毛筆本の段階では107話であったが喜代司書本の段階で12話が追加され119話となった。


そして喜代司書本をもとに初稿が印刷され、初稿を再考し、一部伏字となっていた固有名詞などに手を加えられ完成本となった。
これら3つの原稿は、長野県松本市で政治家を務めていた池上隆祐が昭和7年に『石神問答』の刊行に対する記念として『石』の特集号を発行した際、折口信夫、金田一京助らの署名を入れた特装本を柳田へ贈った事に対する謝礼として柳田より池上へ贈られた。
池上の没後に遺族より遠野市へ寄贈され、それ以降は遠野市立博物館が保管している。


『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された。


 



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出典: 「遠野物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



あらっ。。。 日本の民俗学の先駆けとも称される作品なのですわねぇ~。。。 でも、ずいぶん昔の物語ですねぇ~。。。



とにかく、けっこう有名ですよ。。。 僕は大学生の時に初めて読みました。。。 『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された、とあるように愛読者が多いのですよ。。。


デンマンさんが上に引用した本はバンクーバー図書館で借りたのですか?


そうです。。。 本棚を覗いていたら たまたまタイトルが目に入ったので、すぐに借りたのですよ。。。


つまり、『遠野物語増補版』に更に追加されたお話が載っているのですか?


そういうことです。。。 でも、新しく付け加えられた話ばかりじゃなくて、古い話でも本に載らなかったものも含まれているのですよ。。。 『遠野物語拾遺』も柳田國男がまとめたもので、上の本は『遠野物語拾遺 retold』というタイトルで京極夏彦が2014年にまとめて出版したものです。。。


。。。で、どういうわけでデンマンさんは上のお話を引用したのですか?


あのねぇ~、僕は上の話を読んだ時に、なぜか引っかかるものがあった。


何が引っかかったのですか?


小松の家の娘、仮にお菊さんとして。。。 このお菊さんがなぜお寺に現れなければならなかったのか?



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でも。。。、そのことを“オマク”と言うのでしょう?



手っ取り早く言えば、そういうことなのですよ。。。 



オマク



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柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。


『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。


能登半島では「シニンボウ(死人坊)」といって、数日後に死を控えた者の魂が檀那寺へお礼参りに行くという。


こうした怪異はほかの地域にも見られ、特に戦時中、はるか日本国外の戦地にいるはずの人が、肉親や知人のもとへ挨拶に訪れ、当人は戦地で戦死していたという伝承が多くみられる。


また昭和15年(1940年)の三重県梅戸井村(現・いなべ市)の民俗資料には前述の『曾呂利物語』と同様の話があり、深夜に男たちが火の玉を見つけて追いかけたところ、その火の玉は酒蔵に入り、中で眠っていた女中が目覚めて「大勢の男たちに追いかけられて逃げて来た」と語ったことから、あの火の玉は女の魂とわかったという。




出典: 「遠野物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



つまり、“オマク”というのは生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見えることなのですよ。。。



お菊さんの思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見えたのですわねぇ~。。。


そういうことです。。。 でもねぇ~。。。 どのような思いが凝ったのか? その事については何も書いてない。。。


その事がデンマンさんには気になったのですか?


その通りですよ。。。 でもねぇ~、お菊さんがどのような思いに凝ったのか? それが僕に判ったのです。


マジで。。。?


もちろんですよ。。。 真由美ちゃんを呼び出してまで話をするのだから、真面目な話です。。。


分かりましたわ。。。 ぜひ聞かせてください。。。


あのねぇ~、真由美ちゃんにはまだ話してないけれど、実は僕(長男)の弟(次男)が今年(2017年)4月24日の午前7時頃に亡くなったのですよ。。。


あらっ。。。 冗談でなくてぇ~。。。?


もちろん冗談じゃありません! このような事を冗談で言えるはずがない!


それで、そのお話というのは。。。?


僕が弟(三男)の正造に書いた手紙を まず読んでください。。。



2017年4月24日 月曜日


 


昨夜、正造さんから 突然の喜代司(きよし)さんの死亡の知らせを受け、
全く予期していなかったので驚きました。


体は以前と比べれば弱っているとは言うものの
少なくとも まだ2年か3年ほどは生きているだろうと予測していたので
死亡の知らせは青天の霹靂でした。


考えてみると、2月4日のお袋の死が喜代司さんに生きることの儚(はかな)さと
希望を失わせたのでしょうね。。。


 



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高校生の頃電車に飛び込み自殺をしようと試みたことがあったけれど、
「俺が死んだらかあちゃんが悲しむだろうなァ~。。。」
そう思って思いとどまったということを お袋から聞かされた覚えがあります。


そう言う訳で私も去年の11月に帰省した時に、
「お袋よりも先に死ぬことだけはしないように。。。」と喜代司さんに言おうと思ったのですが。。。
つい、言う機会を逃してしまいました。


しかし、喜代司さん自身にも、お袋よりも先に亡くなって悲しませたくないという気持ちがあったのでしょう!
だから、お袋が2月4日に亡くなって2ヶ月後に 喜代司さんが追うようにあの世に逝ったのです。


寂しく一人でお墓に入っているお袋の話し相手にでもなろうと思って
お袋のそばに逝ったのだと。。。 そんな風に思えてきました。


そのように思うと喜代司さんの死が不憫ではなく、
なんだか心温まるようにも思えます。


ところで、4月28日の午後5時にお通夜をやるそうですが、
夕べ、よくよく考えた挙句、日本へ戻ってお通夜に参加することはやめます。


親父(オヤジ)さんの葬式にも出なかった。
私は、もともとお通夜とか葬式という行事に意味を見出していないのです。。。


それで、親父さんが入院中には20日間ほぼ毎日見舞いに行田中央総合病院に通いました。
親父さんとは 生前あまり話をしませんでしたが、その20日間には、
20年分ぐらいの話をしたように思います。


「死んで花実が咲くものか」と昔の人は言いましたが、
死んでから、お通夜やお葬式をしても、意味がないと思うのは、そういうためです。
お袋が亡くなったときに、日本へ戻り 通夜と葬式に参加したのは例外中の例外でした。
30年以上お葬式に出たことがない!


喜代司さんとも、お袋が亡くなった時に食事を一緒にしたり、
会ってそれなりに語り合えたことはよい思い出ができたと思います。


そういうわけで、もう20年ほど前から遺書を書き換えていますが、
つねに、自分の葬式は要らない。。。
遺体はバンクーバーの大学の医学部に寄付。
そのようにか固く決めています。


正造さんに、すべてを任せきって、自分が何もしないということを
心苦しく、我侭だとは思いますが、
通夜と葬式だけが亡くなった者を“ともらう”、というものでもないでしょう!


心の内でお袋に対しても、喜代司さんに対しても、充分に“ともらう気持ち”を持っています。
通夜や葬式は私にとって、形式だけの 時間と金を無駄にする行為に見えて、時には滑稽にも思えてきます。


仏教が葬式仏教になって、お葬式に100万円以上がかかるというのは、滑稽としか言えず、
正式にすると400万円もかかるというのは馬鹿バカしく思えてなりません。


 



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坊さんに、合計で60万円も包むのは、さらに滑稽としか思えません。。。
「坊主まるもうけ!」とは、昔の人はよく言ったものです!


そういうわけで、今回の喜代司さんのお通夜と葬式には出ませんので、
親戚の人たちには、当たり障りのないように正造さんからよろしくお伝えください。


喜代司さんの葬式は、バンクーバーで私なりに心の内で“ともらいたい”と思います。


墓参りなども、私は全く信じておりません。
今年の秋には、これまでどおり行田に帰省して また食事を一緒にしながら語り合いましょう。。。


 



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喜代司さんのお骨も、親父とお袋のお骨と並んで 仲良くお墓の中に入っていることでしょうから、
その時には、例外中の例外で、お墓参りをしてあげようと思います。
心の内のお墓参りのつもりです。


ちなみに、お袋のお通夜と葬式に昨年亡くなった叔父・泰夫さんの奥さんの安子さんが
あれほど体が弱っているのに、参加してくれたのには、本当に驚きでした。
当時、お礼に伺おうと思っていたのに、ついつい行きそびれてしまいました。


今年の秋、もし健在であれば、蓮華寺にお墓参りした後で
安子さんを お見舞いしたいと思います。


 



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勝手ではありますが、そのようなわけで喜代司さんの通夜とお葬式には欠席します。
あしからず。。。


 


追伸:


たまたま、2016年10月6日の手紙を読みなおしたら
(フラッシュ・メモリーに下書きが保存されている)
次のように書いてありました。




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「もし、喜代司さんが2,3日間自宅に


戻れるような機会があるなら、


私と喜代司さんの二人で 那須高原へ旅行して


由香里ちゃんが働いている「自在荘ホテル」で


泊まろうと予定しています。


喜代司さんにとっても、いい思い出になるでしょう。。。」


残念ながら旅行ができるほどの体調ではありませんでした。


このことがマジで心残りです。


叔母の多佳子さんに電話で連絡するようなことがあれば、よろしく お伝えてください。


 


デンマンより



あらっ。。。 喜代司さんが4月24日に亡くなったのですか? 全く知りませんでしたわァ~。。。



真由美ちゃんも僕もバンクーバーにいるし、2月のお袋の葬式のために 二人とも日本へ戻ったのですよ。。。 それから2ヵ月後に 喜代司さんが逝った。。。 正直な話、「またかよう!」と僕は不謹慎にも声を上げてしまいましたァ。。。 お袋の葬式に参列した親戚や、知人や、友人や関係者に正造さんが喜代司さんの死亡通知を出せば、おそらく多くの人が僕が感じたような「またかよう!」という思いに捕らわれるはずですよう。。。


それで、デンマンさんは私には告げなかったのですか?


そうです。。。 真由美ちゃんだって忙しいのだし。。。 僕だけが葬式に出るか?出ないか?決断をすれば、それで十分ですよ。。。


分かりましたわ。。。 それで、お菊さんのお話ですけれど。。。 喜代司さんが亡くなった事と関係あるのですか?


もちろん、時代も場所も違うし 直接の関係はありません。。。 でもねぇ~、お袋が永眠している蓮華寺のお墓の前で お菊さんがお線香を手向けている姿が僕の夢に出てきたのですよ。。。


あらっ。。。 マジで。。。?


わざわざ真由美ちゃんを呼んでまで、悪い冗談を飛ばすわけには行きません。。。 ホントの話です。。。


それで、夢の中でデンマンさんがお菊さんに その理由を尋ねたのですか?


そうですよ。。。


。。。で、お菊さんは何と答えたのですか?


次のように答えたのです。。。




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ここでデンマンさんとお目にかかるのも、何かのご縁だと思いますわァ~。。。



僕もまさか、蓮華寺のデンマン家の墓の前でお菊さんと会えるとは思いませんでした。。。 いったい、どういうことですかァ?


喜代司さんがお母様を追うようにして亡くなられるお姿をお見かけしましたので、私事とは思えなくて、土淵村からここまでやって来てしまったのですわァ。。。


それは、また どうして。。。?


実は、私の母が半年ほど前に肺結核で亡くなりました。。。 デンマンさんもご承知のとおり、当時 肺結核は打つ手のない死病であり、この病によって若くして命を落とす人がたくさんおりました。。。 母は手内職の夜なべの仕事がたたって、それで結核に冒されたようです。。。 父と私は悲しみにくれました。。。 母の死で父はずいぶんと気弱になったと見え、1ヶ月もしないうちに今度は父の病状が急激に悪化して、寝たきりになってまもなく亡くなったのです。。。


それは気の毒なことでした。。。 お葬式がちょうど僕の母と弟が重なったように お菊さんの家でもお父さんとお母さんが相次いで亡くなられたのですねぇ~。。。


そうです。。。 それだけに、喜代司さんがお母様を追うようにして亡くなられるお姿をお見かけして 身につまされたのでした。。。


そうですか。。。 遠野物語では土淵村の光岸寺という寺が火災に遭って焼け落ち、寺を建て直すことにになり、土淵村字山口に住む、慶次郎という大工が棟梁となって、新築工事を始めたのですよねぇ。。。



(kouganji2.jpg)


 



そうですわ。。。



そんなある日、お菊さんがお寺にやって来て、その姿を棟梁や、一緒に働いていた大工たちが見かけたというのです。。。 でも、それからお菊さんが何処へ行ったのか、どういう訳か誰にもわからないということなのですよ。。。


もちろん、それは生身(なまみ)の私ではありません。。。 私は、その時 傷風(しょうかん)の病で苦しんでいましたから、歩くこともままなりませんでしたわ。。。


それなのに、どうして あの人たちはお菊さんの姿を見かけたのですかァ?


それは、私が苦しさのあまり このまま苦しんで亡くなるのならば、早く父と母のところに行きたいと強く念じたからだと思いますわァ。。。


なるほど。。。 「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と言うらしいですけれど。。。 お菊さんの苦しみがそれほどひどかったということですかァ?


そうです。。。 早く父と母のところに行って3人でまた団欒を共にしたいと思ったのですわ。。。


なるほど。。。 それでお菊さんの生霊(いきりょう)がお父さんとお母さんの眠るお墓に歩いていったのですねぇ~。。。


そういうことだと思いますわァ。。。 もしかして。。。、もしかして。。。、デンマンさんは、この事もブログに書くのですかァ~?


いけませんかァ~?


別にかまいませんけれど、ブログを読むネット市民の民様が信じてくれるでしょうか?


あのねぇ~、お菊さんの時代にも“信じる者は救われる!”という昔からの言い伝えがあったと思うのですよ。。。


ええ。。。、そう言えば、そのような事を何度か母が言っていたのを思い出しましたわァ。 


だから、僕がお菊さんのことを書けば“救われたい”と思う人は信じてくれるはずです。。。 少なくとも真由美ちゃんだけは信じてくれるはずですから。。。



マジで、こういう夢を見たのですかァ~?



嘘やデタラメでこのような長い記事を書けると思いますか?


デンマンさんなら書くと思いますわァ~。。。 うふふふふ。。。


あのねぇ~、夢の中でも 真由美ちゃんだけは信じてくれると思っていたのですよ。。。


でも。。。、でも。。。、夢と現実は違いますわァ。。。 (モナリザの微笑)


つまり、真由美ちゃんは僕の見た夢を信じないのですかァ~?


そこまで言われたら、信じないわけにはゆきませんよねぇ~。。。 信じることにしますわァ。。。 (再びモナリザの微笑)



(monalisa.jpg)


 (すぐ下のページへ続く)


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by denman705 | 2017-05-27 03:04 | ミステリー

行田遠野物語 (PART 2)


 


行田遠野物語 (PART 2)



【デンマンの独り言】



(kato3.gif)


真由美ちゃんの母親は 僕の従妹です。。。


つまり、僕の母親は真由美ちゃんにとって大伯母にあたります。



(mother002.jpg)


僕の母親が亡くなる2年ほど前に真由美ちゃんと一緒に撮った写真です。


ところで、真由美ちゃんは、ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいました。


去年(2016年)の9月に卒業式を終えて、
現在、バンクーバー市内の旨いベーグルを提供するカフェ・レストランで働いています。


忙しい時間を割いて、真由美ちゃんも僕の母親の葬式には参列してくれました。


学生時代には、先生やクラスメートとの英会話には、まごつくことがあったそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。


あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。


でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。


同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。


太田将宏老人のように、40年もカナダに住んでいるのに
英会話が満足にできずに 6人に成りすまして日本語でブログにコメントを書きなぐって余生を過ごす人もいます。


なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。


もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。


僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。


しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。


いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!



(inflight2.jpg)



(airport1b.jpg)


ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?


とっても素敵な街ですよ。



(stanley50.jpg)



(seawall3.jpg)



(seawall2.jpg)


世界で最も住みやすい街バンクーバー






(wetsuit.jpg)



(wetsuit3.jpg)



(gastown20.jpg)




(canplace22.jpg)



ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?


卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。


クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。



(polar10.jpg)



上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?


ところが気温は確か2度ぐらいでした。 


水の中の方が暖かかったのです。


とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。


あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。


では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。


だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。



(hand.gif)



If you've got some time,


Please read one of the following artciles:




(santa85b.jpg)


『サンタ マユミちゃん』


『お汁粉@海外』


『お汁粉@カナダ』


『支払いでトラブル』


『風邪で甘えてる場合じゃねぇ~!』


『バレンタインのお菓子』


『結婚、仕事、人生』


『命の力だね』


『英語と真由美ちゃん』


『海外に目を向ける』


『カーネギーホールじゃないよ』


『やる気があれば道は開ける』


『ニャンニャンと人生』



(juneswim.jpg)


『ピラミス@美術館』


『夢のバンクーバー』


『バンクーバーの屋上で』


『オランダ移住』


『カナダ移住の夢』


『ディープコーヴ』


『浴衣のバンクーバー』


『黒豚テリマヨ』


『イタリアのベーグルとサルサ』


『花火大会』


『乙女老い易く学成り難し』


『真由美ちゃん@英語』


『真由美ちゃんダントツ』


『日本よい国天国だ!』


『やっぱりどこか狂ってる』


『日本で再会』



(utsunomiya10.jpg)


『乙女力@宇都宮』


『いい出会いの連鎖』


『笑顔の乞食おばさん』


『ニュートンの暗い秘密』


『新年@バンクーバー』


『スープキッチン@新年』


『猫と癒し』


『猫と犬と癒し』


『大通りde水の滑り台』


『イルカとワンちゃん』


『カワウソ@スタンレー公園』


『生パンツ系男子とベトナム兵』


『愛と癒しの涙』


『ダンスとノーベル賞』


『おもてなし』


『思い出ポロポロ』


『ロブソンの5月』



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『ネットが不倫を連れて来る』


『ペットと良心』


『夢のデニッシュ』


『パンツァネッラ』


『12歳少女の短命』


『行田の伯母さん』


『パン職人修行』


『タイムマシーン』


『ルンルンdeサルサ』


『天国のワンちゃん』


『万の風になって』


『プロシュット』



(juneswim.jpg)


『なせば鳴る音楽』


『日本人女学生行方不明』


『日本人女学生死亡』


『ガレット』


『那須高原の紅葉』


『希望とロマン』


『錯視 錯覚』


『マンボ@バンクーバー』


『オリーブオイル』


『スコーンとプディング』


『5月のロブソン』


『病院食の間違い』


『プレミアム・ジャパン』


『自然の摂理を無視すると…』


『夢のデニッシュ・悪夢のマーガリン』


『パリ風カフェ』


『どこか狂ってるわ』



(surfin2.gif)



(dogs17.gif)



(girlxx.gif)


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by denman705 | 2017-05-27 03:03 | ミステリー

 

おつまみミステリー(PART 1)

 


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(june001.gif)

デンマンさん。。。 “おつまみ”ってぇ、ビールのおつまみだと思いましたわァ~。。。


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(kato3.gif)

確かに、ムレムレする真夏の日影で おつまみをつまみながら冷えたビールを飲むのってぇ、ルンルン気分になれると思いますよ。。。 でもねぇ~、今日の話はビールのおつまみではないのですよ。。。



どうして、ビールのおつまみではないのですか?

あのねぇ~、実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の絵に出くわしたのですよ。。。


フォンテーヌブロー派

「ガブリエル・デストレとその妹」


 


(fontaine14.jpg)

1594年頃の作品

謎のおつまみである。
乳首四つ、指輪一つ、イヤリング二つ、ぜんぶ粒々である。
目玉も唇も鼻の頭も全部粒として描かれている。
指先までも粒になりかけているようだ。

この世界の粒々の強化のために、人体はふわふわの綿みたいに描かれている。
この綿をめくると中にも粒々がぎっしり詰まっていることを、この二人は見る者に教示している。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




65ページ 『ルーヴル美術館の楽しみ方』
著者: 赤瀬川原平 熊瀬川紀
1997年2月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社 新潮社




あらっ。。。 まだ『ルーヴル美術館の楽しみ方』という本を借りているのですか?



そうです。。。 いけませんか?

つまり、本の中に“乳首をつまんでいる絵”が出てきたので、それを話題に取り上げたのですか?

あれっ。。。 ジューンさんは呆れた表情を浮かべましたねぇ~。。。 (微笑)

だってぇ~、そういうのってぇ~、ちょっと気まぐれと言うか? 単純すぎるのではありませんかァ~?

しかし。。。、しかし。。。、 ジューンさんは、一応キリスト教徒でしょう?

そうですわァ。。。 でも、わたしがキリスト教徒である事と“おつまみ”と何か関係あるのですか?

ありますよ。。。 大有りですよ。。。 だから、僕はジューンさんを呼び出したのですよ。。。

分かりましたわ。。。 デンマンさんが、そのように言うのであれば、さっそく、その理由を聞こうではありませんか。。。 細木数子さんのように余計な事を言わずにズバリ!とその理由を言ってくださいなァ。。。

あのねぇ~、順序良くしゃべらないで、ズバリ!ズバリ!と細木数子のように見境もなく突っ込むと誤解を招いて視聴者から苦情が出るのですよ。。。それで、テレビのお偉方から睨まれ、細木数子は番組を降ろされてしまったのです。。。 物事には順序というものがある!。。。 だから、順序良く、誤解を与えないように、十分に納得のゆくように話さないと駄目なのですよ。。。

とにかく、デンマンさんの記事は長くなるのですわ。。。 できるだけ余計な事を言わずに、手短に話してくださいなァ。。。 これでも、わたしは忙しい身なのですわァ。。。 この後 やらねばならない予定が詰まっているのですから。。。

分かりました。。。 じゃあ、まず次の小文を読んでください。


ヴォルフラム・フライシュハウアー

Wolfram Fleischhauer



(fontaine16.jpg)

(1961年6月9日~ 現在)

ドイツの小説家、推理作家、ファンタジー作家。
男性。
ドイツ南西部の都市カールスルーエ生まれ。

地元のギムナジウムを卒業したのち、ドイツ、スペイン、フランス、アメリカ合衆国の大学で文学を専攻した。

16世紀末に描かれたとされる「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」(ルーヴル美術館所蔵)に関する謎をテーマにした歴史ミステリ小説『緋色の線』(未訳 Die Purpurlinie)で1996年にデビュー。

1999年発表の第二作『雨の手の女』(未訳 Die Frau mit den Regenhänden)は2000年のドイツ・ミステリ大賞でドイツ語作品部門の第3位となった。

2001年発表の第三作『殺戮のタンゴ』はタンゴをテーマにしたミステリ作品で、ドイツとアルゼンチンが舞台になっている。
フライシュハウアーはアルゼンチンの作曲家アストル・ピアソラのファンで、この作品は1998年にアルゼンチンを旅したのをきっかけに構想された。
原題の『現実との三分間』(Drei Minuten mit der Wirklichkeit)はピアソラの同題のタンゴ曲からとっている。

2004年にはミヒャエル・エンデの小説『はてしない物語』の世界観に基づく小説を複数の作家が執筆する《ファンタージエン》の企画に参加し、『ファンタージエン 反逆の天使』を発表している。

小説の執筆のほか、欧州連合(EU)の会議の通訳などの活動もしている。




出典: 「ヴォルフラム・フライシュハウアー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




このドイツ人のフライシュハウアーさんは、上の絵、つまり16世紀末に描かれたとされる「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」(ルーヴル美術館所蔵)に関する謎をテーマにした歴史ミステリ小説『緋色の線』(未訳 Die Purpurlinie)で1996年にデビューしたのですよ。。。



つまり、ミステリー作家を惹きつけるほどの謎が上の絵には隠されているのですか?

そうですよ。。。 要するに、この絵は普通の絵じゃないのです。。。 だから、『ルーヴル美術館の楽しみ方』の著者の赤瀬川原平さんの目にも、ちょっと変わった絵として映ったのですよ。。。 僕の目にも不思議な絵という印象を与えた。。。

どこがそれほど不思議なのですか?

あのねぇ~、ちょっと次の小文も読んでみてください。


画家の遊び空間


(asobi02.jpg)

何が楽しいかというと、絵の中に埋もれた画家たちの私小説が読めるのである。
タッチの表現を封じられた時代の画家たちのタッチが見える。 (略)

絵を描く筆触(タッチ)は画家の存在証明である。
絵を鑑賞する裁判官はタッチなどではなくそのテーマによって判決を下そうとするが、画家には絵のタッチがアリバイである。

アリバイとは岩波国語辞典によると「犯罪が行われた時、その現場以外の所に居たという証明。現場不在証明」とある。
この「犯罪」を「テーマ」という言葉に置き換えると見えてくるのだ。

もちろんその絵はすべてその画家が描いた。
画家はその絵の中心にあるテーマを描き上げることに奉仕している。
絵の隅にはサインもあるし、証拠は挙がっているのだ。

とはいうものの、いっぽうそのころ、画家はその絵のテーマの外にもいて、絵の中の部屋の隅、机の下、窓の外、窓の外の森、森の向こうの山並み、青空、白い雲など、絵筆があちこち遊び回っていることも事実である。 (略)

このころの絵のテーマというのはだいたいにおいて人物である。
肖像的要素をもつものがほとんどである。
その場合人物の中心は顔である。
その顔の中心といえば2つの目と1つの口を結ぶ三角地帯で、そのまた中心をあえていえば鼻の先であろう。

つまり、一枚の肖像画があり、その中心は鼻の先にあるのだ。
そこがテーマの頂点であり、画家のタッチのもっとも禁じられている場所である。


(sebastian1.jpg)

だから、鼻の先、2つの目、その間の眉間、唇、頬、といった顔面中心部は、絵の中でもっともツルツルに仕上げられている。
もちろん絵筆で描いているのでタッチがないわけではないが、そのタッチが綿密に押し詰められて、点がぎっしり並んで面になるという感じで、タッチの凹凸がそこでは完全に埋没してツルツルになっているのである。

そしてそのタッチ厳禁の場所を離れるに従って、タッチの並びは水面下でゆるやかになり、ちょうど魚の背鰭が水面からときどきのぞくみたいに、ほんのりとタッチが顔を出すようになる。
そしてさらに顔面を離れ、人物を離れ、部屋の床や壁や窓の外の風景などに行くと、タッチはピュン、ピュンと飛びはじめてくるのだ。 (略)

顔面中心の目と鼻の先の近辺だけは、とりあえずツルツルに描くことに留意している。
その中心部ではタッチを殺しながら、そこを離れた周辺部ではタッチが嬉しそうに飛び跳ねている。
画家はそこで遊んでいるのだ。

絵の中心部では重々しい受難のキリスト像が、あるいは威厳ある顔つきの実力者像が、タッチを押し殺して出来上がろうとしている。
いっぽうそのころ、そこを離れた窓の外の風景の森の葉っぱで、画家の筆先はテーマの重力を脱したかのように、すいすいと軽やかに跳ね回り、遊び回っている。


(sebastian2.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




96-99ページ 『ルーヴル美術館の楽しみ方』
著者: 赤瀬川原平 熊瀬川紀
1997年2月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社 新潮社




上の文中に出てくる「聖セバスティアンの殉教」という絵はルネッサンス期の画家のソドマが1525年に描いたものですよ。。。 この上の絵を見れば、誰が見てもテーマは聖セバスティアンの殉教だということが分かる。。。 ジューンさんはキリスト教徒だから、もちろん、分かりますよねぇ~。。。?



キリスト教徒じゃなくても分かりますわよう。。。

でも、ジューンさんならば、絶対に間違った事を言わないと思ったから呼び出したのですよ。。。 (微笑)。。。 上の「聖セバスティアンの殉教」という絵は、真面目な絵です。。。 それでも、画家の遊び空間が上の絵にもある。。。 それが、背景の風景画ですよ。。。 この部分で、ソドマは息抜きして自由に書いている。。。 ところが、「ガブリエル・デストレとその妹」の絵は、見る人に“真面目なテーマ”を感じさせないところがある。。。 すべてが画家の遊び空間になっている!


(fontaine12.jpg)



じっくりと見なくても、この絵には どことなくふざけたような印象を見る人に与えるのですよ。。。 ジューンさんも、そう思いませんか?



確かに、「聖セバスティアンの殉教」という絵と比べると、どことなくユーモアを感じさせる微笑(ほほえ)ましい絵だと思いますわァ。。。 うふふふふふ。。。

でも、いくら微笑ましい絵だと言っても、この絵をジューンさんが日曜日に行く教会の祭壇に飾るわけにはゆかないでしょう!?

そうですわねぇ~。。。 で、上の絵は、そもそも どのような意味が込められた絵なのですか?

調べてみたら次のようなことが書いてありましたよ。


《ガブリエル・デストレとその妹》

ミステリアスにして

セクシーな作品の意図は?


 

謎に包まれたこの絵は作者も不詳で、フォンテーヌブロー派の誰かとしか分かっていない。

貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられた。

画中には、奥の部屋の暖炉の上に、裸の男性の下半身が見える絵も掛かっている……


(fontaine15c.jpg)

ルーヴルの絵画で不可思議な印象をもたらすのは、2人の美しい女性が入浴しているあの絵だろう。
画面左の女性が右の女性の乳首をつまみ、右の女性が指輪を見せている、優美で官能の薫り高いフォンテーヌブロー派の作品だ。

その前に立つと、あなたは思わず見とれ、そして首を傾げるだろう。
この美女たちは誰で、いったい何をしているのかと。

伝承によると、右の女性は国王アンリ4世の寵姫ガブリエル・デストレ、左はその姉妹ビヤール公爵夫人。
一説には、2人の謎めいた仕草は、ガブリエルが国王の私生児を身ごもり、正式の結婚を望んでいることを示し、奥の部屋では侍女が生まれてくる赤子の産着を編んでいるのだという。
だが最終的な結論は出ていない。

ちなみに、国王を夢中にさせたガブリエルは王妃の座へという願いかなわず、悲惨な最期をとげる。
アンリ4世の4人目の子供を身ごもっているときに、26歳で突然死したのだ。

毒殺の疑いがあるのは、彼女を警戒する敵が多かったからだが、真相は闇の中。
子供のいない王妃マルゴとの離婚を認められたアンリ4世が、ガブリエルの死後に再婚した相手こそ、「物語と事件」(CREA Traveller 2013年夏号 P78~に掲載)で紹介したマリー・ド・メディシスで、
こちらは愛のない政略結婚であった。

(上の絵はデンマンライブラリーより)




『ミステリアスな名画の謎解きをルーヴルで』より




貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられたと書いてありますけれど、そうなのですか?



あのねぇ~、フォンテーヌブロー派の画家たちだけじゃなくて、中世でも貴婦人の入浴図は、浮気ごころのシンボルとして、たびたび描かれたのですよ。


(bathhous1.jpg)


(bathhous2.jpg)



上の絵は1470年から1480年頃に描かれたものだけれど、中世の浴場の場面なのです。。。 見れば分かるように男女が一つの浴槽に浸かって、テーブルに向かって仲良く座って食事をしている。。。 そのあとで、すぐ上の絵に描いてあるように個室に入ってベッドでシコシコと睦み合うのですよ。



でも。。。、でも。。。、「ガブリエル・デストレとその妹」の絵では、姉妹が一つの浴槽に入ってますよねぇ~。。。 どういう意味があるのですか?

だから、それが謎ですよ。。。


(fontaine17.jpg)



言い伝えによると、右の女性は国王アンリ4世の寵姫ガブリエル・デストレで、左の女性は妹のビヤール公爵夫人。。。 2人の謎めいた仕草は、ガブリエルが国王の私生児を身ごもり、正式の結婚を望んでいることを示している、と言うのですよ。。。 それを補強するかのように奥の部屋に侍女を描き込んでいる。。。 この侍女が生まれてくる赤ちゃんの産着を編んでいる、と説明しているのですよ。



そう言われてみると、確かに、それらしくも見えますよねぇ~。。。 デンマンさんも、そう信じているのですか?

あのねぇ~。。。 結局、真相など分かるはずがないのですよ。。。 僕に言わせてもらえば、「ガブリエル・デストレとその妹」の絵は、誰が描いたのかも判明してない。。。 つまり、もともと、ある画家が画家の遊び空間で描いたものなのですよ。。。 真相を突き止めるのは野暮というものです。。。

つまり、この事を言うために、わざわざ わたしを呼び出したのですか?

いや。。。 もしジューンさんが「ガブリエル・デストレとその妹」の絵のコピーをジューンさんの教会の祭壇に飾るのだとしたら、止めた方がいい、と言いたかったのですよ。

わたしが、そのような事するわけないでしょう!

そうでしょう。。。 そうでしょう。。。、するわけないですよねぇ~。。。 でもねぇ~、ジューンさんにも“遊び心”があるから、万が一ということだってあるでしょう!? その時には次の絵を教会の祭壇に飾ってくださいねぇ~。。。


(maria05.jpg)



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)
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by denman705 | 2016-08-10 06:31 | ミステリー